Thursday, December 30, 2010

Personal XXX of the year 2010

こんばんは。久しぶりの更新です。2010年も残すところあと1日となりました。
今年を振り返ると、特に新しいことをやったという感じはしないのだが、少し腰を据えて地に足をつけて生活した1年だった気がする。そういえば、Twitterは今年の1月から始めたのでした。断続的にハマってしまうのだけど、前の日記に書いたとおり、まとまった文章のアウトプットの機会が減るので文章力が落ちることは確か。ほどほどにしよう。来年は、就職活動と修士論文が大きな課題です。早く社会に出たいわ。

さて、個人的に恒例としているPersonal XXX of the yearの今年もいきましょう。(いつものことですが、私が今年に触れた作品が対象です)

◆ Film of the year
2010年は29本の映画を観ました。毎年だいたいこのくらいに落ち着くようです。今年は比較的当たりが多かった気がしますが、その中でもトップは…

「愛のむきだし」(2009、園子音監督)
3時間半くらいの長編映画ですが、全く見飽きることのないエンターテイメント性と、宗教と純愛をテーマにした内容の深さ。若手実力派女優の満島ひかりの演技に感動。音楽やユーモア性なども含めて園子音監督のセンスに脱帽。

次点としては、「ニンゲン合格 License to Live」(1999年)、「Beautiful Mind」(2001)、「SR サイタマノラッパー」(2009)、「Inception」(2010)、「Before Sunset」(2004)、「紀子の食卓」(2006)など。
今年ハマった監督のは、是枝裕和さん、黒沢清さん、園子音さんあたりでしょうか。来年は、石井裕也さんなど若手の実力派監督に注目。

◆ Album of the year
今年は、終盤になってたくさん音楽を聞いた気がする。
トップは断トツで、

「友達を殺してまで」by 神聖かまってちゃん、2010

今年彗星のごとく現れた「神聖かまってちゃん」。モテキのドラマで聞いたのをきっかけにハマった。やることなすことと破天荒で、歌詞もイジメとか出てきて破滅的だけど、音楽とユーモアは抜群。千葉出身で、バンプのような良い意味での引き込もり感もあって好きなタイプではある。ROCKIN'ON JAPAN 1月号で語られた「ジミヘンが今生きていたら、ギター振り回してはいないだろ」みたいなところに、ポリシーをうかがわせる。ある意味、プロレス的なエンターテイナーとしての振る舞いを自覚している。この時代に一番おもしろいことをやってやるという気概は、すさまじいものがある。音楽以外でも活躍しそうなので、注目です。

そして次点は以下2作。こちらも非常に良い。
“Them Crooked Vultures” by Them Crooked Vultures
Dave Grohlのドラム復帰のパフォーマンスは素晴らしかったが、トータルで見ると確かに劣ったか。グラミー2011ではBest Hard Rock PerformanceにNew Fangがノミネートされるにとどまった。

“Anomaly” by the HIATUS
細見武士の音楽は変わらず好き。

◆ Book of the year
今年は結構本を読みました。トップは一つに決まらないけど、
ヴィトゲンシュタイン関連本-「論理哲学論考」(野矢茂樹訳、岩波文庫、2003)、「初めての言語ゲーム」(橋爪大三郎、講談社現代新書、2009)の2冊。
初期ヴィトゲンシュタインの到達点は、論理哲学論考における「論じえないことについては、ひとは沈黙しなければならない。」の部分。つまり、論理的に証明できることには限界があり、その限界は(広義の)言語にある(ある言語を使ってその言語の外側を語ることはできない)ということである。それ以上のことを「分からせる」には、例えば小説、音楽・絵画・映画などの芸術を通すなどして、「示される」しかないということ。このようなことが、発展的に展開されたのが、後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの業績である。それは、次のようなことである。
「根拠を求める営みには終点がないかのようである。だが、根拠のない前提が終点になるのではない。根拠なき行動様式、それが終点なのだ。」(初めての言語ゲームp.134、全集9:35)
例えば、辞書に載っている2つの似た単語(例:abilityとcapacity)が、互いにその意味の説明にそれらを一部用いているとしよう。普通に考えたら、それじゃあ説明になってないよ、と子供心に辞書に突っ込みたくなったことを思い出すが、言語の本質とはそういうことなのである。最終的には、現実に人々が使っている文脈の総体がその意味するところなのである。それは、「示される」しかないのだ。
また、言語ゲームは単純な言語の文法の他、数学(数の計算のルール)、論理学(人間の思考のルール)、法律(人々の行為のルール)などにも当てはめることができる。そう、あんなに意味不明だった数式記号や、法律の専門用語などもその言語ゲームの中のルールなのだと割り切って考えれば、通常の言語に縛られてもっと概念理解に有効な他の言語ゲームを拒絶しないで済む。

本の次点としては、「アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界」 (中公新書、堂目 卓生、2008)と「官僚制」(マックス・ウェーバー、阿閉・脇訳、恒星社厚生閣、1987)、「日本に『民主主義』を起業する-自伝的シンクタンク論」(鈴木崇弘、第一書林、2007)などを挙げたい。公務員就職を考えて、いろいろ読み漁った1年。しかし、実際に役に立たないことばかり読んでいる気が(笑)。試験対策はこれからギアを上げて頑張る。

以上、Personal XXX of the year 2010でした。
来年は、忙しくなりそうだけど、また良い作品に出会えるといいと思います。
それでは、みなさま良いお年を!

Saturday, October 23, 2010

The reason you had better start studying economics a bit later

Speaking of the great Japanese economists, I would like to name Michio Morishima (1923 - 2004, for his work in and outside of Japan), Hirofumi Uzawa(1928- , for his contribution to economics of the climate change and social overhead capital theory), Naoki Komuro (1932 - 2010, more famous as an sociologist, for the introduction of the history of the development of economic theory to the Japanese commonality), and Yoichi Takahashi (1955 - , for his contribution to the economic reform and government revitalization in Koizumi administration). A thing they have in common is they were from mathematics major and later became experts in economics. (Mr. Morishima was not exactly from math major but extremely good at math.)

One of my acquaintance once introduced his professor's caution, if memory serves me, "you can do the greatest work that use highly mathematical theory only until your mid 30s." In other words, the earlier you study math the better you can acquire and apply it. In my opinion, there are two reasons for this. First, math doesn't need any experiences to master it. It is a tool that enables you to think logically and systematically by yourself. That's why there are some geniuses for math. Second, doing math consumes lots of energy in particular when acquiring it. It needs fresh brain. Although I am not good at math at all compared with other students in my university, I believe that my choice was right that I went to engineering department even though my interest was more on social sciences.

Although there are many exceptions, most undergraduate students in economics department in Japan have no interests on the economics but they just want to enjoy "university life" or get how to make money, to say the least of it, only to find there is no point in studying economics for the purpose. As Mr. Komuro pointed out in Chap.13 of his book "keizaigaku wo meguru kyosho tachi" (the giants in economics, 2004), this would the product of the education by rote because of the entrance examination ordeal for university; In Japan, few high school teachers put importance to let the student explore the wonder of science and stimulate the intellectual curosity of students.

Philosophy and religion, in contrast, need a lifelong investigation. They need your own experiences in order to appreciate the values of various thoughts by previous philosophers. Again in my opinion, the essence of philosophy had already shown by Friedrich W. Nietzsche (1844 - 1900). That is, there is never a sole value that is true and you have to reinvent your sense of value again and again in your life on the basis of the experiences. The idea was introduced metaphorically as "superman" by Nietzsche in his book, Thus Spoke Zarathustra (1883–1885).

Let me take some examples. Jeffrey Sachs, American economist famous for his book The End of Poverty, insists that human being was succeeded in abolish slavery and thus it is also possible to remove poverty altogether by our lifetime. Also, sustainability issues such as climate change and biodiversity are other symbolic problems to be overcome in that only very recently had they became one of the most important global issues as the scientific analyses revealed their disastrous consequences. I think this is exactly the way human being renew its sense of value to "higher" level and it seems an everlasting effort since achieving one goal may take couple of generations and another goal will show up one after another.

I remembered another useful statement by Katsuhiro Nishinari (1967 - ). He is a well known mathematical physicist in Japan for his Jutaigaku, the application of his theories into the real traffic congestions and other similar phenomena. In a magazine, he said that you should not read any textbook before you construct your own ideas by pondering again and again, if you want to establish a whole new academic field. This is because you will be forced to think within the framework of the textbook, however famous it may be, and lose originality of your own ideas.

I think these are exactly the reasons why there are so many economists in Japan and yet so few have achieved great works internationally. I mean that most mainstream economists in Japan seems so less critical on existing framework and result in just following-up discussions in western countries.

In conclusion, I suggest that you should start studying economics a bit later. Not too early to formulate your own hypothetical ideas about the systems of human society but not too late to acquire and apply mathematical analyses. And I feel I am studying economics in right period in my life even if it seems never going to achieve great work in economics.

Wednesday, July 21, 2010

[Review]アダムスミス-『道徳感情論』と『国富論』の世界

「アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界」 (中公新書)、堂目 卓生、2008
★★★★★

「神の見えざる手」で有名な経済学の父とされるアダム・スミス(1723~1790)。彼が「国富論」(1776)に書いたことは以下のように解釈されてきた。

これまで「見えざる手」は、利己心にもとづいた個人の利益追求行動を社会全体の経済的利益につなげるメカニズム、すなわち市場の価格調整メカニズムとして理解されてきた。そして、(中略)、政府による市場の規制を撤廃し、競争を促進することによって、高い成長率を実現し、豊かで強い国を作るべきだということだと考えられてきた。
(はじめに、iページ)

しかし、著者は、本書でスミスが発表したもう一つの著書「道徳感情論」(1759)を手がかりに、スミスがどのような思考過程によってそのような説を主張するに至ったのかを丁寧に明らかにする。それによれば、スミスは個人の幸福に関する錯覚(個人の幸福は、所得がある一定レベルを超えればそれ以上大きく変わることはないにもかかわらず、それ以上の富を得ようとする幻覚)は、道徳的に感心はしないが、社会全体としては、それが意図せず貧困層の雇用などを生み出し、国の富の増大につながると考えた。その過程は、「国富論」で分業、資本蓄積といったおなじみの概念として解説されている。しかし、それには前提条件があった。すなわち、個人の利益追求行動が市場の価格調整メカニズムを通じて社会全体の経済的利益につながるためには、フェアプレイの精神が市場を支配していなければならないということだ。フェアプレイの精神とは、(スミスの時代に蔓延していた、政府や一部の特権商人による重商主義によってしばしば起こっていた)価格の不当なつり上げ・つり下げをする結託がないことや資本・労働・土地のサービスが部門間を自由に移動出来ることなどを保証する個々人の自己規制の道徳的精神である(もしくはそれにもとづく市場の制度)。

市場原理主義的な主張の思想的よりどころとなるスミスの「見えざる手」ついて、一時文献を丁寧にたどってその前提条件に関する大いなる誤解を明らかにしたことは、華やかさはないにしてもその価値ははかりしれないものがあると思う。ましてや、この本ができるまでの一連の議論が、アメリカのサブプライムローンなどに代表される金によって金をかせぐだけの異常なバブルがリーマンショックなどを経て2008年後半に破綻したのよりも前に着実に進められて、これよりも前に本書が出版されていたということは、ただ驚くばかりで、著者らの先見の明には脱帽である。

この本を読んで私のスミスに関するイメージはかなり変化した。どうやらスミスは、人間の虚栄といった弱さを認めつつも、それが社会全体の利益につながるためにはどのような政策が必要なのかを考えたように、徹底的なリアリストであることがわかった。このような姿勢が、個々人が道徳的にどうあるべきかといったやや不毛な議論から逃れて、のちの科学的・体系的な経済学の議論につながっていったのだと思う。
唯一、スミスが貧困層の独立心は資本家からの仕事によって育まれるために所得再分配政策を明確に指示しなかった(p.185)との部分には(スミスに)私は同意しないが、このようなマクロ経済学の議論が発展した時代にもスミスが生きていたらどのような回答をしたか知りたいと思う。

とにかくおススメの一冊。

Saturday, July 17, 2010

[Review]限りなく透明に近いブルー

「限りなく透明に近いブルー」、村上龍
★★★★☆

友達から借りてさっと読んだ。村上龍作品は初めて。
1978年と30年以上も前の小説だが、色あせた感じはしなかった。物語全体として何か目的を持って描かれたとは思えないが、その過激な表現は何やら魅力的であった。蛾つぶすところの描写など。
20歳のころの体験にもとづいているというので、村上龍の若かりし頃の勢いを否が応でも感じた。今は、ふつうの怖いオッサンに見えるが。他の作品も読みたいとまでは思わなかった。

Thursday, June 24, 2010

Is Twitter a revolution?

Its been almost two years since studying abroad in Singapore.
Since I have focused on developing Japanese language itself rather than in English, my English writing skill has got worse. So I will try to brush it up, aiming to speed up writing academic papers that I am tackling.

This time, to begin with, I would like to write about Twitter or micro-blogging.
Nowadays, social media such as SNS (facebook, mixi), Twitter has become quite common and many journalists regarded it as innovative and revolutionary phenomena. Actuary, I am a relatively heavy user of them. Reflecting real benefit, however, I doubt that these online tools brought me tremendously good effects.
There are two reasons for this.

Firstly, although twitter is very good tool for inputs (get latest news and broaden news source by following famous journalists / commentators) and sharing knowledge or your own, it does no good for writing skill of your own. It has to be developed by other way like diary, blog or on the job training. This is because twitter is too short a tool to write opinions with logic(including conjunction) and data source. It just let users write sudden tip and it is not going to be recorded, resulting in no chance to reflect what they wrote about. Actually, I lost some opportunity to write chunked essays after having started twitter.

Secondly, It tends to encourage online addiction in a sense. Timely tweets (and same services such as "voice" on mixi and "status" on Facebook) made me heavily sensitive to latest news and latest activities of friends and people of interest. (I am sensitive by nature but it went further.) If I were a journalist, it would be good to very much extent. But I am student and have to study systematized knowledge and classic literatures of my field while I am student and I have relatively more time. (Also, always connecting online on social networking sites is nothing to do with real communication and I feel limited interest. They are sometimes very useful in practical way but not always true.) Being online I think is no less dependency than a cigar and alcohol.

Maybe one solution to an addiction to social media would be "detox" or refrain from log-in
to them for certain days regularly. And I am trying to do this, finding it more hard to stop drinking beer...

[Review]知性の限界

「知性の限界―不可測性・不確実性・不可知性」、高橋昌一郎、講談社現代新書、2010
★★★★☆

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を読みたいが、ハードルが高いので、まずこの本を読んでみた。対話形式なので、哲学を扱っているのに非常に読みやすいし、おもしろかった。


◆第1章 言語の限界
「論理哲学論考」に代表される前期ウィトゲンシュタインと、言語ゲームの理論を構築した後期ウィトゲンシュタイン、そして言語の問題に関わるその周辺が展開されている。
最後のソーカルの引き起こした「サイエンスウォーズ」はなかなかおもしろい事件であったと思った(笑)
これは1996年に、ソーカルという物理学者が、ポストモダニズム系学者の無数の意味をなさない表現を引用して作ったパッチワークを「カルチャラルスタディーズ」の論集として知られる『ソーシャル・テクスト』誌に投稿し、彼らがきちんと意味を理解しているのかを実験したのである。これが、ニューヨークタイムズの一面に載るなど、理系と文系の両陣営の賛否両論の大論争になったという話。
意味のない科学用語の使用に対する警告は、誰でも注意すべきだろう。よくわかっていないのに、知ったかぶりに多用しない。よく理解していても一般大衆に語りかけるときには、平易な言葉で語る努力をする等々。それが大事だろう。


◆第2章 予測の限界
省略

◆第3章 思考の限界
奇跡か偶然かの項で「宇宙・存在-人類が今のようにあるのは、偶然か必然か?」という点はおもしろい議論だった。

私個人の意見を以下に記しておく。
思考できなければ、上で命題としているような「存在」を知覚することはできない。したがって、無数の宇宙が有ったとして、その1つに偶然(様々な物理定数が人類誕生に丁度いいように微調整されて)人類が誕生したが、宇宙の存在などを思考できるのは人間に限られるので、結果的にそれが必然であるように見えるだけなのではないか。だから、思考できる実体(生物種)が存在しない宇宙においては、その存在は認知されえない。このような、宇宙が別にいくらでも存在しているかもしれないし、していないかれないが、それらを別の宇宙に存在している人間が哲学したところで何の意味も持たないように思う。(もし、この宇宙と別の宇宙が何らかの形でつながっていなければ、ということだが。そして実際に、他惑星の生物からのメッセージのようなものはいまだ観測されていないのだから、繋がっていないその可能性は高い?)

蛇足
大学1年だかのときにとった西洋近現代思想の授業が果てしなく、つまらなく感じたのは、講師が悪かったのか、自分がそれに興味をもつのには早すぎたのか。。。ただ、今はそれなりにあのつまらない話も訳に立っているとは思受けどね。そして、その講師が紹介してくれた本は良かったのは覚えている。これも対話形式だった。


さて、そろそろ無為に哲学書などを読むのをけりをつけて現実の仕事をしなければならない(笑)論文を訳すのに何週間かかってるか分からん。

Saturday, June 19, 2010

言語システム

最近、言語システムというものに興味がある。

なぜ、日本人はあいまいなものいいしかできないのか?
なぜドイツ語圏から多くの偉大な思想家が生まれているのか?
日本人には一般的に、日本人的な思考体系があり、イギリス人にもイギリス人的な思考体系があり、ドイツ人も、中国人・・・もそうである。そして、最近それらは言語に大きく規定されているのではないかとい感じている。(ここで、言語が先にあるのか、そのような民族的性質が風土や他国の侵略等歴史的経緯によって形成されているのか、はたまたその組み合わせなのか、という議論はひとまず置いておくこととする。)
そこで、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」などに読み漁っているとこである。あまり、まとまってはいないが、今回はまず私の考える日本語の特徴と言語システムの2つの目的について記しておく。


◆日本語の特徴
日本語には、使用する文字の種類についても、文法・語法的にも様々な特徴がある。一つの例が、単語には複数形がないことである。したがって、日本ではその物が1つあるのか複数あるのかには明示的にあまり意識されない。これは、外務省の対外的説明と内向きの説明に利用されたりする。例えば、沖縄の普天間基地移移設問題で、5月に発表された日米合意案について、外務省は日本語版では単に「滑走路」としているが、英語版では「runway portion(s)」と複数形になっており、対外的には2本の滑走路を含む現行のV字滑走路案を念頭に合意したことが分かる。
また、日本語は主語が省略可能なことが多く、行為の責任の所在があいまいになったりするため、一般にリーダーシップの欠如が問題になることが多い。
これら特定の言語の特徴は、他言語との比較でしか認知することはできない。つまり、日本語しかわかっていない人間は、日本語で規定されているようなルール(制約)を超えて、自覚的に思考することはできないということになる。(もちろん、数式など異なる記号体系を使えば思考はできるが、それは日本語ではない。)
こう考えると、英語を使えないことが多い日本人は何やら思考回路が貧弱なようにも思えてくるが、日本語はカタカナや漢字を用いて、他言語の翻訳機能にすぐれている(?)ために、いったん日本語に適切に翻訳されれば、それほど問題はない。(ただし、訳書が出るのに、2~3年もかかっていたら古典的な価値を持つ名著を除いて、情報としての鮮度は落ちる。また、訳が完全に正確ということもあり得ない。さらに、小説などはその文学的・詩的な質感が失われてしまうことは言うまでもない。)しかし逆に、日本語のそのような言語としての柔軟性が日本人の外国語習得意欲を妨げている一因とも考えられる。

◆思考ツールとしての言語システム
私は、2年前にシンガポールに留学し、主に英語を使って生活していたが、そのときに稚拙な英語能力のために日記などを書くのにやたら欲求不満になり、ときどき日本語で一気に開放されたように考え事を書きつづった覚えがある。そして、日本に帰ってきてからは、英語というよりかはもっと日本語を身につけたいと本気で思ったもである。つまりは、少なくとも一つの言語に関しては高度に習熟していなければ、質の高い思考はできないだろうということに気がついたのである。まとめると、言語を思考ツールとして捉えるならば、中途半端に習得した言語は使い物にならないだろうというだ。

◆コミュニケーション・ツールとしての言語システム
哲学書を読むことは、より抽象的で根本的な概念についての語彙が増えるので、その範疇での質の高い思考ツールを得ることでもあると思う。しかし、そのような難解な言葉は、日常生活におけるコミュニケーションには全く役に立たないだろう。それどころか、伝わることも伝わらないし、いかに自分が感動した話であっても聞く方としては、全く魅力を感じないだろう。
要するに、日常生活においては意思伝達をして何かをしてもらったり、感覚や感情や伝えることで共感してもらったりすることが大事なのであって、言語はそのように使われているのである。この場合、哲学書は何の役にも立たない。このようなコミュニケーションを目的として言葉を磨こうと思ったら、小説や落語のようなものが有効だろう。


最後におまけだが、陸上400mHの為末氏は、言語は生き物であり常に変化しているが、英語が今後グローバル化の影響で(日本がそうなったように)よりあいまいになっていくのではないかと予想している。おもしろい予想である。(あまり知られていないが、彼のブログは本当におもしろい!)

Friday, June 18, 2010

[Review]仕事頭がよくなるアウトプット勉強法

「仕事頭がよくなるアウトプット勉強法」、増永寛之、サンマーク出版、2009
★★★★☆

ビジネス書は数が過剰感があって内容も薄いのでそんなに読まないけれど、これはおススメ。

先日Twitterでつぶやいたけれど、
「人間が思い出せるのは、
* 耳にしたことの10%
* 目にしたことの35%
* 耳にして、かつ目にしたことの55%
* 言葉を言い換えたことの70%
* 言葉を言い換えて、実行したことの90%」

というのは、かなり真実に近いと思う。
これを自分の言葉でいいかえると、
「真に自分の身なる情報の量は、
* 2次情報としてインプットしたこと(ニュースや読書)の10%
* 1次情報としてインプットしたこと(自分で体感する、勉強なら手を動かす)の40%
* 人に自分の言葉で説明したことの70%
* 当事者として関わり実践したこと(サークルで何かを実践する、研究に使うetc.)の90%」
といったところか。

ようするにアウトプットが大事なのだということ。
(茂木健一郎氏の本によれば、インプット(発散系)とアウトプット(収束系)は脳の回路がつながっていないから、インプットが多くなりがちな情報化社会ではアウトプットがより意識的になされるべきだとある。

それについてこの本はいろいろな実践方法が書いてある。
一番重要なのは、アウトプットを前提に(どの媒体でどのようにアウトプットするかを考えながら)インプットすることだろう。

その他、大事だと思ったところ。
・何をどのように勉強するかを決めるのではなく、先に1日の中で習慣として勉強時間を確保する(スクリーンアウト) p.53-56
・「スルータイム型」と「インタイム型」人間
スルータイム型の人は、スケジュール帳のように時間が上から下(または左から右)というように縦(または横)に通過する感覚を持つ人である。このような人は、「時間を客観的に見ていて、あまり思い入れもなく、自分に対しても他人に対しても時間に寛容な人が多い」そうである。p.65-66
インタイム型の人は、時間が自分の前から通過してきて、後ろに流れていくという感覚を持っている。このような人は、「時間を自分のことのように大切にしていて、時間を厳格に管理する傾向にある」そうだ。
自分は、絵にかいたような「スルータイム」型なので(笑)、うまくタイムマネジメントをするためには、インタイム型に移行しく必要があるだろう。

・ビジネス書は一気に読まない。
何冊ビジネス書を読んでも、効果がないのは実践する事項を覚えているうちに、実践しないからだろう。だから、ビジネス書はちょっとずつ読んで、1つづつ実践することが大事。非常に的を得た指摘。

Saturday, May 15, 2010

Missing Singapore

ここ数日シンガポールを思い出す機会が多い。

先日は大学の留学フェアでシンガポールブースに座って来場者に説明。
毎年NUSから来ている交換留学生に会う。

先週の水曜日には向こうにいたときに知り合った日本人の友人と食事をして、当時の話題に花が咲く。いく人かは内定もらってて学生生活の残りを楽しみまくろうという感じだったな(笑)

昨日は、留学の授業が始まる前に参加したNUSサマープログラムで知り合ったインド系香港人(=中国人??)が東京に来たので、歌舞伎町で飲んだ(笑)本当に変わってなかった。あのポジティブさと遠慮のなさはさすがだよな。明日も秋葉原、浅草めぐりに付き合う予定。

ああ夏が近くなると、シンガポールの料理がもっと食いたくなるな~。ラクサくいてぇ。
棚にしまってあるラクサの素を使うときがくるかな。

Saturday, May 8, 2010

ワークステーション完成。



GW前後の時間を利用して、自宅の仕事場の大幅な改良を試みた。

1.ONKYOのデスクトップPC導入
CPUにCore i7-860、メモリ4GB、ディスプレイ21.5型、サウンド良、ブルーレイ再生可能。。。
前の5年使ったノートに比べて超速。

2.机のスペース確保
USB付きのモニターボードを使用し、使わないときのキーボード、マウスを収納。そして、スリムな棚も買って、机の作業スペースを常に広く確保。ポイントは、本棚とデスクトップ本体、そして机の右の棚の間や後ろをうまく使って、ごちゃごちゃしがちなコード・ケーブル類をスリムに収納した。

これと、AndroidOSのスマートフォンXperiaで仕事の効率はかなりあがることを期待。少なくとも机まわりの見栄えはだいぶよくなった。まあ同時に、ブルーレイとONKYOのスピーカー搭載のモニターにしたので映画鑑賞のペースが上がることは間違いないだろう笑

Sunday, May 2, 2010

田原総一朗氏のすごさ

昨日のニコニコ動画の「ネット上の誹謗中傷を考える」の番組はすごく面白かった。
参考:池田信夫ブログhttp://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51415571.html

特に田原総一朗氏のすごさを再確認した。最近、「朝生」が有名・やり手の論客を呼ぶのはいいけど、わいわいがやがややって言いたいこと言えずに終了という感じが多かったので、最近あまり見ていなくて田原さんの言葉は最近ご無沙汰していた。
しかし、田原さんは76歳にもかかわらず、Twitterを始め、ニコニコ動画にも進出しているのを最近知った。あのような方を見ると、おそたく一流たる人は、単に流行を追うのではなく、本質的に有用だと認識して初めて、とことん利用するのだということが分かる。そこに流行りも、年齢・ジェネレーションギャップも何もない。ただその価値を理解できるかどうかの問題なのだと。ネットジャーナリズムが今一番自由な言論を確保しているということに田原氏が気付かないほうがおかしいか。テレビジャーナリズムを作った男というよりか、常にジャーナリズムの先端を行っている男というべきか。田原氏はネットジャーナリズムでもうひと暴れするでしょう。天皇制とか、原発保有の是非とか、既存メディアでできなかったテーマををとことんやってほしいわ。

仕事は進まないが効率は上がっている。

久しぶりの更新。GWどこにもいかないかわりに久しぶりに休みらしい休みをとれている。

4月はいろいろバタバタして研究は全然進んでない(冷や汗)。ただ、いろいろ区切りということで、ツールの更新をとことんやっている。

先週5年間使ってきた、ノートパソコン(Let's Note)からOnkyoデスクトップに変えて、ものすごく快適さが向上した。池袋のビックカメラ本店まで行って、店員さんにいろいろ聞いたかいがあった。
Core-i7入れたらサクサク動いて非常に満足。音声の良いフルHDモニターとBlueRayも入れて14万ならいい買い物だったと思う。
今日はさらに2週間前に予約したGoogleのAndroid OS搭載のXperiaが入荷したとの連絡があり、明日早速取りに行く予定。これで、いろいろまた効率が上がるはず!
そして、仕事にとりかかるのはまた延び延びになる笑

Tuesday, March 9, 2010

まとまったアウトプットを増やしていく方向で

昨日は、雪で道が大変でしたね。なんで、東京の雪は3月に多いのでしょうか。誰か教えてください。

さて、卒論のためにだいぶブログをさぼっていたためすごく文章のアウトプットが下手になったなと思い居ます。特に、最近はfacebook、mixi、twitterでつぶやくことが多く、そうすると文脈を省略した自己満足的な文章しか書かなくなっていたので最近切にちゃんとした文章をもっと書こうと思ううしだいです。

たくさん書きたいことは溜まっているがまずは、米アカデミー賞から。
昨日の受賞式で『ハートロッカー』が6冠とったみたいだけど、先週のシンポジウムで黒沢清監督があれは悪質な戦意高揚映画だと言っていたのでどうも観る気がしない。『アバター』が『ナウシカ』と『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』を足して二で割ったものだから、脚本賞を取れないのはわかるが、ちょっと純粋な評価とやや異なる圧力がかかったことを疑ってしまう。去年、『おくりびと』が『Waltz with Bashir』を破って外国語映画賞を取ったのにも、何らかの圧力がかかっているのは確かなような気がするし。どうも、賞の選考過程自体が授賞式の視聴率に影響されているので、協賛企業、またその後ろにあるユダヤ商人の意向が反映されているというところが実情のように思う。ま、メジャーな賞は、日プロ大賞とかとは違うのだから別にどうってことはないのだが。昨今、映画賞・映画祭(本もそうだが)が乱立している。例えばベルリンなどは、いろいろと模索しているようで、小規模作品になるべく多くスポットを当てる方向から、次は個々のインパクトが薄くなっているということで上映数をやや絞る方向にあるという。どれだけその存在目的をはっきりと意識して達成するか。また、その意図を観客がちゃんと理解すること。それが今後、重要なのだろう。

Sunday, March 7, 2010

クールジャパノロジーの可能性

久し振りの投稿です。三寒四温で、春ももうすぐですね。私の場合は花粉症でつらい時期ですが。
先週の金曜日に無事に卒論発表を終え、1年ぶりくらいにほっとしました。さて、今回はその後、金曜の夕方と土曜の午後にうちの大学であった、東浩紀氏と宮台真司氏プロデュースの国際シンポジウム「クールジャパノロジーの可能性」についてちょっと書きたいと思います。

1日目は、後半を聞けず、2日目は前半を聞けなかったけれど、それでも充分面白かったですね。特に2日目の内容は非常に濃くて、3,4年か毎年この世界文明センターのシンポジウム聞いてますけど、抜群に一番面白かったです。

1日目は、学術としての、社会学、哲学、文化人類学、地域研究など、似たようなものを論じているのに、非交流的なクールジャパンに対する言論をとりあえず共有しようという話だった。宮台氏の話は面白かったけど、東氏は一コメンテーターなのが明らかに不満そうで、それをストレートに言うのが東氏らしさでそれは面白かったが、あとは全体的に学者の話という感じで後半はスキップ。

2日目は、映画監督の黒沢清氏と、美術家の村上隆氏を迎えて「日本的未成熟」についての話。

村上氏によると、「日本のアニメやマンガが出てきた背景には、やはり貧しさがあった。どうやって貧しさの中で、見てくれる人に満足を提供するかということに、ものすごく知恵を絞って試行錯誤した。」かららしい。これは、初めて聞いた説だけど、確かにそのような気がする。
村上氏は、いかにして戦略的に西洋のアートシーンに受け入れられる形で、日本のポップカルチャーを進出させていったのかを語ってくださった。そこには、日本のアートシーンが常に西洋を追いかけてきた段階から、良い作品であるならば、そのままで必ず西洋でも受け入れられるという仮説があり、そのような仮説を実証してきたのそうだ。この日の話を聞いて、村上氏のやってきたことの意図が良くわかったし、今後の活躍に期待したいと思いました。

また、黒沢氏の話によると、映画はたかだか100年くらいの未成熟な芸術だから得意なのではないかという指摘には一理あると思った。

その他、いろいろとディスカッションの中で共通していた、日本的未成熟なるものが持つ本質的な意味を次に書いてみる。
まず各氏が述べていたキーワードは、
キース氏「解放」
東氏「乖離」dissociation
宮台氏「政治性、社会的文脈からの無関連化機能」
村上氏「スーパーフラット」
黒沢氏「露骨に期待しない表現」
である。

要するに、今の日本のポップカルチャーが世界の若者に受け入れられているのは、それが、社会的文脈と切り離されたうさんくささのない、純粋な、イノセントなアートであるからなのではないか。
そしてそれは、カワイイといった、人間が共通的に持つ動物的な感情(本能)が、そういったある種の感動(キースはカワイイとは、主体性をさえぎる、おもわず微笑んでしまうとか、そういうことだという論文があることを紹介していた)を遍く人にもたらす最大公約数的な機能を果たす可能性を示している。
これは、いまだに政治的・宗教的対立が人々を不安に陥れている国際社会において一つの希望を示しているようにも思う。
村上氏のかつてのクーリエジャポンのインタビューでだいたい次のようなこと(記憶があいまい)を述べていたのを思い出す。「くだらないことに夢中になるのは時間の無駄かもしれないけど、政治的・宗教対立などで戦争して殺しあってるよりかはずっとまし。」

日本人は、総じて国際感覚がないこと、民主主義・政治も未成熟であること、これらは恥ずべきことかもしれないが、ある意味ではいろんな可能性を持っているような気がする。紛争地域における援助をするときの中立性だとか、そういうところとつながっていると思う。

クールジャパノロジーの可能性を感じたシンポジウムでした。

Sunday, January 17, 2010

COP15と日本のマスコミ

今年実質上初のブログです。今卒論を書いている真っ最中ですが、アップしちゃいます。

さて、COP15が終わってからもう一ヶ月以上経ってしまったけど、レポートを2つ書いたものがあるので良かったら読んでみてください。

関連して、昨日、社会学者・宮台真司氏と現外務副大臣・福山哲郎氏の共著「民主主義が一度もなかった国・日本」というのを読んでいて、日本のテレビ・新聞におけるジャーナリズムの衰退(もしくは問題の表面化、宮台氏の言うマスゴミ)というのは問題だなと思って、本の中に出ていた「ビデオ・ジャーナリスト」神保哲生氏の「ビデオニュース・ドットコム」をちょっと覗いてみたら、そのクオリティーの高さに驚いてしまった。おそらく、知らない間に「自由な報道」というものに触れる機会が少なくなっていたかもしれない。

特に、マル激トーク・オン・ディマンド 第455回(2009年12月26日)の中で、神保氏が環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也氏と、前出の宮台真司氏とともに、COP15の総括として行っている議論は、525円払わないと見られませんが、これだけでもその価値があるというほど濃い内容です。おそらく環境問題と国際政治、国内政治の全てにおいてある程度の基礎知識が必要ですが、この議論はすごいです。

要点としては、1つは今回のCOP15の結果は、内容としてはそれまでの一般的な期待値からすれば低いけれども、その実際に持つ意義というのは画期的だったのだということだ。
今回の結果は今の国連の枠組みでグローバルイシューの合意形成することの限界を浮き彫りにし、その次の国際合意形成は、リーダーの個人的信頼関係(国内での取り組みなど細かい積み重ねによって、それは強化される)によって決定されるのだということ。
そして、2つ目はこれから日本が25%を宣言しただけでなく、それを着実に政策を動員して実績を作っていかないとその目標は全く国際交渉で意味を持たなくなるという厳しい現実。
私個人としてできることは、まだ多くないけれども、すごくモチベーションがあがりました。
やはり、あのCOP15という歴史的な場をこの自分の目で見たということは、長い目でみるとものすごい大きな価値を持つような気がします。

以上、一発目の投稿でした。