Tuesday, March 9, 2010

まとまったアウトプットを増やしていく方向で

昨日は、雪で道が大変でしたね。なんで、東京の雪は3月に多いのでしょうか。誰か教えてください。

さて、卒論のためにだいぶブログをさぼっていたためすごく文章のアウトプットが下手になったなと思い居ます。特に、最近はfacebook、mixi、twitterでつぶやくことが多く、そうすると文脈を省略した自己満足的な文章しか書かなくなっていたので最近切にちゃんとした文章をもっと書こうと思ううしだいです。

たくさん書きたいことは溜まっているがまずは、米アカデミー賞から。
昨日の受賞式で『ハートロッカー』が6冠とったみたいだけど、先週のシンポジウムで黒沢清監督があれは悪質な戦意高揚映画だと言っていたのでどうも観る気がしない。『アバター』が『ナウシカ』と『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』を足して二で割ったものだから、脚本賞を取れないのはわかるが、ちょっと純粋な評価とやや異なる圧力がかかったことを疑ってしまう。去年、『おくりびと』が『Waltz with Bashir』を破って外国語映画賞を取ったのにも、何らかの圧力がかかっているのは確かなような気がするし。どうも、賞の選考過程自体が授賞式の視聴率に影響されているので、協賛企業、またその後ろにあるユダヤ商人の意向が反映されているというところが実情のように思う。ま、メジャーな賞は、日プロ大賞とかとは違うのだから別にどうってことはないのだが。昨今、映画賞・映画祭(本もそうだが)が乱立している。例えばベルリンなどは、いろいろと模索しているようで、小規模作品になるべく多くスポットを当てる方向から、次は個々のインパクトが薄くなっているということで上映数をやや絞る方向にあるという。どれだけその存在目的をはっきりと意識して達成するか。また、その意図を観客がちゃんと理解すること。それが今後、重要なのだろう。

Sunday, March 7, 2010

クールジャパノロジーの可能性

久し振りの投稿です。三寒四温で、春ももうすぐですね。私の場合は花粉症でつらい時期ですが。
先週の金曜日に無事に卒論発表を終え、1年ぶりくらいにほっとしました。さて、今回はその後、金曜の夕方と土曜の午後にうちの大学であった、東浩紀氏と宮台真司氏プロデュースの国際シンポジウム「クールジャパノロジーの可能性」についてちょっと書きたいと思います。

1日目は、後半を聞けず、2日目は前半を聞けなかったけれど、それでも充分面白かったですね。特に2日目の内容は非常に濃くて、3,4年か毎年この世界文明センターのシンポジウム聞いてますけど、抜群に一番面白かったです。

1日目は、学術としての、社会学、哲学、文化人類学、地域研究など、似たようなものを論じているのに、非交流的なクールジャパンに対する言論をとりあえず共有しようという話だった。宮台氏の話は面白かったけど、東氏は一コメンテーターなのが明らかに不満そうで、それをストレートに言うのが東氏らしさでそれは面白かったが、あとは全体的に学者の話という感じで後半はスキップ。

2日目は、映画監督の黒沢清氏と、美術家の村上隆氏を迎えて「日本的未成熟」についての話。

村上氏によると、「日本のアニメやマンガが出てきた背景には、やはり貧しさがあった。どうやって貧しさの中で、見てくれる人に満足を提供するかということに、ものすごく知恵を絞って試行錯誤した。」かららしい。これは、初めて聞いた説だけど、確かにそのような気がする。
村上氏は、いかにして戦略的に西洋のアートシーンに受け入れられる形で、日本のポップカルチャーを進出させていったのかを語ってくださった。そこには、日本のアートシーンが常に西洋を追いかけてきた段階から、良い作品であるならば、そのままで必ず西洋でも受け入れられるという仮説があり、そのような仮説を実証してきたのそうだ。この日の話を聞いて、村上氏のやってきたことの意図が良くわかったし、今後の活躍に期待したいと思いました。

また、黒沢氏の話によると、映画はたかだか100年くらいの未成熟な芸術だから得意なのではないかという指摘には一理あると思った。

その他、いろいろとディスカッションの中で共通していた、日本的未成熟なるものが持つ本質的な意味を次に書いてみる。
まず各氏が述べていたキーワードは、
キース氏「解放」
東氏「乖離」dissociation
宮台氏「政治性、社会的文脈からの無関連化機能」
村上氏「スーパーフラット」
黒沢氏「露骨に期待しない表現」
である。

要するに、今の日本のポップカルチャーが世界の若者に受け入れられているのは、それが、社会的文脈と切り離されたうさんくささのない、純粋な、イノセントなアートであるからなのではないか。
そしてそれは、カワイイといった、人間が共通的に持つ動物的な感情(本能)が、そういったある種の感動(キースはカワイイとは、主体性をさえぎる、おもわず微笑んでしまうとか、そういうことだという論文があることを紹介していた)を遍く人にもたらす最大公約数的な機能を果たす可能性を示している。
これは、いまだに政治的・宗教的対立が人々を不安に陥れている国際社会において一つの希望を示しているようにも思う。
村上氏のかつてのクーリエジャポンのインタビューでだいたい次のようなこと(記憶があいまい)を述べていたのを思い出す。「くだらないことに夢中になるのは時間の無駄かもしれないけど、政治的・宗教対立などで戦争して殺しあってるよりかはずっとまし。」

日本人は、総じて国際感覚がないこと、民主主義・政治も未成熟であること、これらは恥ずべきことかもしれないが、ある意味ではいろんな可能性を持っているような気がする。紛争地域における援助をするときの中立性だとか、そういうところとつながっていると思う。

クールジャパノロジーの可能性を感じたシンポジウムでした。