Thursday, December 31, 2009

2010年明けましておめでとうございます

2010年、明けましておめでとうございます!
昨年お世話になった方、どうもありがとうございました。今年もよろしくお願い致します。

今年は初日の出を見られたので、1年良いことがありそうです。
昨年で2000年代が終わりあらたな10年が始まりました。
この10年はどうなるのでしょうか。10年後は自分もう30代ですね。それまでには立派な大人になっていたいですね。

ちなみに昨年は、研究室所属をし、環境NGOと環境コンサルでのバイトなど毎度のことですが色んな経験をしました。12月にはCOP15に乗り込み、一つ区切りがついたように思います。この詳細はあとでアップします。
今年は、卒論と大学院の受験など、腰を据えて研究やら勉強やら何やら打ち込む年になるのかなと思います。卒論が終わったら、ひとまず学部を卒業なのでいろんな人と久しぶりに会いたいですね。


さて、個人的に恒例としているPersonal XXX of the yearの2009ができていなかったので遅ればせながら、書いておきます。(いつものことですが、私が2009年に触れた作品が対象です)

◆ Film of the year
2009年は約30本の映画を観ました。2008年より数としては少ないですが、今年も多くの良い映画を観られたと思います。早速、挙げてみましょう。

「アイデン&ティティ」(2003)
みうらじゅん原作、田口トモロヲ監督の初作品ですが、今年一番泣いた作品です。2009年の自分とも重なる部分が強くて、Filom of the Yearに挙げました。

次点としては、「闇の子供達」(2008)、「スワロウテイル」(1996)、「トウキョウソナタ」(2008)、「ゆれる」(2006)、「Lust, Caution」(2007)、「うなぎ」(1994)、「グラントリノ」(2009)、「Avatar」(2009)なども劣らず良作でした。

◆ Album of the year
悩みますが、一番はこれ。
“Whatever People Say I Am, That's What I'm Not” by Arctic Monkeys
このオリジナリティーには頭が下がります。この次の2作も毎回違うテーマで曲を作っていて飽きないですね。数十年以上活躍するバンドでしょう。このアルバム最後の “A Certain Romance”が好きです。ちょっとその歌詞を以下に紹介するけど、これがArctic Monkeysを端的に表している!

There's only music, so that there's new ringtones
着メロになるような(商業的な)音楽しかちまたにはないのさ


そして次点は以下2作。こちらも非常に良い。
“21st Century Breakdown” by Green Day
“Trash We’d Love” by the HIATUS


◆ Book of the year
2009年はそんなにたくさんの本を読んだ気はしないけれど、村上春樹にハマりましたね。その意味で、Book of the yearは、
「ノルウェイの森」/村上春樹
です。1Q84も良くて、4月に続編が出るみたいですが、絶対読みますね。

次点は夏のもやもやしてた時期に読んだ「善の研究」/西田幾多郎です。初の本格的な現代日本語の哲学書として読み継がれてきているだけのことはあるなと思いました。


以上、Personal XXX of the yearの2009でした。
今年もたくさん良い作品に出会えるといいと思います。

Sunday, October 11, 2009

近況

先週、久し振りにバスケットボールをやったら、フルコートで予想外に40分間ぶっ通しでゲームを続けるから終盤にふくらはぎが攣りまくった。それでも無理してちょっとやってたら肉離れ状態に。

感覚的な肉離れのしくみの解説

筋肉が過度に疲労する
筋断裂を防ぐために筋肉が自ら収縮する(痙攣)
それでも無理してプレーを続けると、当然痙攣したままの
状態なので、足首を固定したまま走ることになる
この状態だと当然動きは遅い
運動中はアドレナリンとか興奮するホルモンが出ていて
痛みはあまりでないが、運動終了後、徐々に違和感が
増してくる
本来の歩いたり、走ったりするときに滑らかに連動して機能していたふくらはぎの筋肉が
ずっと痙攣に近い状態で、筋肉が骨などから離れた感覚になる

人から言われて思ったが、この筋肉が離れる感覚の状態を「肉離れ」と呼ぶのではないか。

今回の私の場合は、肉離れと同時になぜか足の親指がうっ血状態で、爪の下が真っ青に腫れている。5日くらいたって、肉離れは治ってきたが、足の親指は治る気配がない。最終的に、ぽろっと爪がはがれるのではないかという懸念さえある。これは医者に行った方がいいかもしれない。しかし、これは何科に行けばいいのでろう。


それから話は変わり、昨日、「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」を公開初日に観て来た。
非常に見応えのある作品だった。
男女の感情の妙が見事に映し出されていたと思う。
浅野忠信、松たか子も存分に味を出したいい仕事をしていたが、広末涼子が特に素晴らしかった。「おくりびと」よりも存在感がずいぶんと増したようだ。あんな役もできるんだね。


さて、最後に先日終戦を迎えた今シーズンのタイガースの総括。
真弓監督が就任して、新生タイガースとして向かえた今年。
去年の岡田で、逆転で優勝を逃した悔しさがどこか、いい形に働いてくれたら良かったが、戦力はもちろん、モチベーションも明らかにダウンしていたように思う。
やはり、コーチなどの経験が一度もない人物が監督をやると、難しいところがあるね。
ブラゼルが途中加入して獅子奮迅の活躍での盛り返しがなければ、CS出場争いすらできなかったろう。エースの安藤が終盤勝てずに、最後にCSをぎりぎりで逃すところも今年の阪神を逆に象徴していたような気がする。
シーズンを通して、マスクをかぶり大きな成長を見せた狩野と、なかなか勝てなかった能見シーズン後半に一皮むけたのは今年の数少ない収穫だが、このままでは長期の低迷は避けれないのでないか。
成績に陰りの見える金本、新井にはそう長い間主軸を任せられないだろうね。
松井秀喜とかこねーかなぁ。巨人を再生させた小笠原みたいになってくれないかな。
あとは、藤川はメジャーにもう行った方がいいのではないか。明らかに、今シーズンモチベーションが維持できていなかったように思う。阪神ファンとしては寂しいけど、藤川は一回メジャーでやってほしいわ。

Saturday, October 3, 2009

信条倫理と責任倫理

2016年のオリンピックはリオになったようですね。南米初のオリンピックで、よかったのではないかと思います。東京が落ちたのは予想通りでした。2012年のロンドンで環境重視の話はもう実現されるわけで、続けて環境重視と言ったところであまり魅力的には写らなかったのでしょう。しかし、最初に落ちなかったのは、鳩山首相のインパクトが今国際的にそれなりにあることも影響したのでしょう。

さて、最近、進路のことを具体的によく考えるのですが、職業の選択肢として大きく分けて民間と公務員とがあると思います。フリーのジャーナリストや、研究職などはまた別ですが。

マックス・ウェーバーは講演「職業としての政治」の中で、すべての倫理的な行動は「信条倫理」と「責任倫理」の互いに両立できない2つの原則にもとづくと述べています。
信条倫理的とは自らの信条的な原則・忠実さを優先し、結果に責任は必ずしも負わない姿勢であり、責任倫理とは、良き目的を達成するためには悪しき手段もいとわずに、自分の行動に予測される結果に責任を負う姿勢のことを指します。
例えば、全ての戦闘を終わらせるための最後の戦闘は許されるのかといった問題です。こういうことが繰り返し語られることで、戦争は長引いたりします。
または政治家が目的を達成するために、いろいろと策略を企てることです。

良き目的を達成するためにどれだけの悪しき手段が許容されるのかに一般的な答えはないでしょう。
しかし、ウェーバーによると、信条倫理(良き目的)と責任倫理(手段をいとわず予測される結果に責任を負うこと)は相互補完的なのだそうです。とりあえず両方の原則で一度考えてみることは、誠実な姿勢なのであり、何も考えずにどちらかだけで判断するよりもずっとましなのではないかと思います。おそらく実際の判断は、その人の性格や信条などのバックグラウンドに応じて、うまくバランスをとることになるのでしょうが。

私の個人的な話でいえば、自分の大きな目的を達成するためには、まず社会にひとまず出て社会的な経験を積み、自分の実務的な能力を高める必要があると思っています。しかし、最初にどこに就職するのがベストなのかというのは難しい問題です。
民間企業で企業の利益追求のために厳しくやっているところにいくのが、個人としての能力は高まるのかもしれないけれど、あまりにも自分のやりたいこととかけ離れたことになると、どこまでその仕事に没頭し、そのモチベーションを維持できるか疑問で、結局駄目になるのではという気もします。
しかし、公務員は公務員で、一端就職してしまえば、一般的には民間のようにはお尻に火がついた状態でいくということはそれほどなく、馴れ合いが多いかもしれない組織の中で、公共のために尽くすという高邁な精神を維持し、自分で自分を磨いていかなければなりません。

いろんな人のいろんな話を聞きますが、どちらがいいのか判断がつかないですね。
今はちょっと公務員側に傾いていますが、ずっと迷っててもしょうがないのでとりあえず大学院の行き先を早く決めて、卒論をやっていくなかで考えていくしかないですね。
ああもっといろんな人の話を聞くべきかなと思います。

Thursday, September 24, 2009

Hello & Goodbye

Today, my friend in lab left to London for her master's degree.
She is so cheerful that many people like to hang around with her. I have respect for her because she have never forgot to smile even in the toughest time for the preparation of the dissertation. I miss her a lot. However, as I aim for going to UK university for my master course, I hope to see her again in Britain next year.

On the other hand, two newcomers showed up to my lab. One is from Malaysia and I am taking care of him as a tutor mainly for language problem. Today, we had dinner together and had a lot of conversations.I got really good chance to brush up my English before I take GRE or TOEFL next time. Hope that he will spend great time in Japan.

Monday, September 21, 2009

「善の研究」を読む

みなさま、シルバーウィークいかがすごしでしょうか。
私は引きこもって本を読んでます。
わざわざ混む時期にどこか行こうと言う気にならないよね。学生のうちは。

まとまった時間があるときにはまとまった時間がないと読めない本を読みたくなるわね。
2年くらい前に買って放置してあった西田幾多郎の「善の研究」をついに読みました。

昔は哲学なんぞ何の役に立つのかと思っていました。学部で橋爪大三郎先生の宗教社会学にはまり思想一般にも興味が沸いたのですが、最近は学部の卒業を控えて自分の進路を現実に考えることが多くなり、自分は人生で何をなすべきなのかということをよく考えています。
もともとが哲学なんぞに興味がなかったものですから、哲学書を読むにしても私の興味のあるのは一般的なことではなくて、いわゆる「実存主義的」な(自分はどのように生きていけばよいのかを考える)問題が中心です。

これまでニーチェなどは少し読みましたが、今回読んだ西田の本などは、数少ない日本人が書いた哲学書なので、世界史・西洋哲学の背景知識などがあまりなくても、そして翻訳を経ていないと言う意味でも、言葉が理解しやすかった思います。抽象的な概念の翻訳ほど難しいことはないでしょうからね。(詩や小説の韻などもそうですけど)
また、講義の資料を想定して書かれているのか系統立てて順序よく説明されているので分かりやすかったですね。もちろん実在なんかのところは一般論を緻密に書いているので難しいですが。


さて内容について少し書いておきます。
この本のメインは(そして私の興味があったのも)

何が人間の真に善なる行為なのか?

を考察することである。
西田は、人間の意志などについての詳細な分析を体系的に述べたあとに、善悪の基準として主に2つのものを挙げる。

一つは、「他律的倫理学説」であり、これは君主や神などの権威に従うことが善であるとするものであり、この説では何が善かの説明ができないのが本質であるいう。例えば、神は全知全能なので、我々が勝手に何が善だとかいうことは判断できないという具合である。西田はこれを受動的であって、なぜその善に従わねばならないのか納得ができないとしている。

もう一つは「自律的倫理学説」であり、これは道徳の根拠を人性(人間の性質?)に求めるものである。これには次の三つがある。

合理説(主知説)
快楽説
活動説

合理説は、理性(真理)に根拠を起き、情欲快楽に克って精神の自由を保つことが理想とする。しかし、我々は理性的動物なるが故に理に従わねばならぬという説明に対して、西田はこういった論理的判断と意思の選択とは別物であり、理が必ずしも意思の原因とならないとしている。

快楽説は苦楽の感情を基準として善を定めるもので、最終的には全て自らの快楽を最大とすることを善とする「利己的快楽説」と、功利主義のベンサムの唱えたような「最大多数の最大幸福」が最上の善とする「公衆的快楽説」がある。西田は、快楽が唯一の人性の目的だと仮定するこれらの説に疑問を呈している。

3つ目の活動説(energetism)は、その根拠を意思の活動に起き、理想(我々の内面的要求)の実現・意思の発展完成をもって真の幸福・満足を追求していくことが善だとする説である。
西田はこれを推して、その理想を「自己の発展完成」=我々の精神が種々の能力を発展し、円満なる発達を遂げ、各自その天賦を充分に発揮することとしている。

西田は、さらにこの活動説に基づいて、自身の完全なる善行について持論を展開する。
まず、善行為の動機(善の形式)については、「至誠」(自己の知を尽くし、情を尽くすこと)が不可欠とし、「主客相没」(自己の全力を尽くしきり、殆ど自己の意識がなくなり、自己が自己を意識せざるところ)に真の善行を見るとしている。

次に、善行為の目的(善の内容)については、個人性の実現を挙げ、それには強盛なる意思が必要と述べている。また、この個人主義は利己主義と異なり、社会と衝突しないという。なぜなら、人間の個人意識の中には社会的意識が大部分を占めており、自分の人格が偉大になる従って自己の要求が社会的となるからとしている。そして、この社会的善として、家族、国家、世界(人類的社会)の3つの階級を挙げている。個人的には、家族と世界についての記述がおもしろかったので書いておく。家族のレベルでは、男女の両性が相補って完全なる人格の発展ができるということ言っています。男が女に惹かれるのはそういうこともあるんですね。個人的に、女性でも特に自分にないものを持っている人に惹かれるのも分かる気がします。
また、世界については「真生の世界主義というは各国家がなくなるという意味ではない。各国家が益々強固となって各自特徴を発揮し、世界の歴史に貢献するの意味である。」と延べ、今日においては、暗に均質なグローバル化は世界の理想像ではないという風に受け取れるので興味深い。

そして結論として「完全なる善行」を次のように述べている。
「我々が内に自己を鍛錬して自己の真体に達すると共に、外自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合うようになる。これを完全なる善行為というのである。」
また、その具体的内容については、以下のように書いている。
「事業の種類はその人の能力と境遇とによって定まるもので、誰にも同一の事業はできない。しかし我々はいかに事業が異なっていても、同一の精神を以て働くことは出来る。」


全体の感想としては、まず言語が思考を作るということは強く感じました。もちろん思想には実体験(感覚)が重要な役割を持つのはいうまでもありませんが、言葉にして書かれて始めて人間の内面についてのあれほど緻密な考察ができるだと思います。最近、書くというアウトプットが不足気味だったのでそれを思い出すいい機会だったかもしれません。
次に内容としては、ニーチェのツァラトゥストラに似ている部分があると思いました。(文中にニーチェは一度も出てきませんでしたが)。
ニーチェは既成の道徳などは捨てて、自らの道徳は自らで繰り返し設定し、「孤独の高み」を目指すべきだとしている。
「恒常不変の善と悪、そんなものは存在しない!
善と悪は自分自身で自分自身を繰り返し超克しなければならない。」
ツァラトゥストラ第二部「自己超克」

これは西田の述べるところの、善行為の目的、自己の発展完成(個人性の実現)と実態としてはほとんど同じだと思いますね。

西田の導き出した結論については、非常に自分のこれまで持ってきた感覚と似たものを感じました。
基本的には、人はそれぞれの能力と境遇に応じてベストを尽くすことが、個人にとっても社会にとっても理想だろうと思っていましたし、それにはその仕事なりなんなりに没頭できるほど、自分の中の迷い・疑念などをなくしていかなけらばならないということもそうです。
(善行為の目的としての個人性の実現などは、論理的な観点から言えば、例えばペドフィリアなど異常愛好者などは、個人主義で行くとは社会衝突は避けられないし、また極貧層などはベストを尽くそうにも尽くせないなど、やや不完全な気もしますが、現実的な感覚からすると非常にしっくり来ますよね。)
しかし、自分に照らしてそれを考えてみると、それには自分はその道でやっていくんだという強い意志を持ち、毎日のゆるぎない努力を継続することが必要であり、これこそが今の自分にとっての必要な部分なのだと思います。毎日ベストを尽くしている自信があるなら迷いは生まれないはずなのだから。

さて、みなさんは善とは何だと思いますか?

Friday, September 18, 2009

久し振りの更新

ブログの更新がとどこおっていました。
この2ヶ月ほどはいろいろなことがありました。

研究室のゼミ旅行、環境コンサルでのアルバイトを始めたことなどとても書ききれないですが。

最近の私は、卒論のテーマがほぼ決まり、それへの着手と
そしてイギリスの大学院の出願準備中です。(アメリカも少し考えているがGREを今から準備するのは結構キツイので難しいのではあるが)

イギリスのMaster's Courseは1年しかないので、その先の見通しを出願する前から立てておかなければならない。就職するのか、博士に行くのか。
就職するなら、どこにするのか。
いろんな業界を考えるもどこも一長一短ある。
博士に行くにしても、覚悟がいるし。
様々な考えが堂々巡りして全然前に進めている感じがしない。
進路や授業の成績などに関しての「抜け目のなさ」のなさは自他ともに認めるところですが、いざ海外の大学院に出願となると、もうちょっと抜け目なくやっておいてもよかったんじゃないかと思うしだい。まあそのへんは他でカバーするっきゃないか。

早く出願だけしてしまって、Conditional Offerがくれば足りない語学でも何でも必死でやったらいんだよ。どうにも早く近頃自分を支配している無気力感を打破しなければならない。


Life is sad
Life is a bust
All ya can do is do what you must
You do what you must do and ya do it well
-Bob Dylan "bucket of rain"

毎日コツコツと努力していくしかないのさ。

Tuesday, July 14, 2009

村上春樹を読む

英語だけ書いていると欲求不満になるので、たまには日本語で書きます。
最近、村上春樹の「ノルウェーの森」を読んでいます。村上春樹を読むのはこれが初めてで、小説を読むのですら半年ぶりくらいでしょうか。

まだ上巻の半分くらいですが、すでにそのおもしろさに圧倒されています。
どう形容したらいいのかわかりませんが、圧倒的に言葉が簡潔かつ正確ですよね。
そして例えがうまい。常に冷静な文体で会話にさえ「!」が出てこない。これは、主人公とその他登場人物が、ひいては村上春樹がおそろしいまでに落ち着いていて、冷静で、客観的に自分や物事を捉えているからなのだと思います。
本を読んだいるだけで、普段の心の持ち方に変化をもたらすような気がする作家ですね。


村上春樹の文体に影響を受けてちょっと最近考えていることを書いてみます。

どうも僕は昔から、志は高ければ高い方がいい、志を持たずになんとなく生きているの周りのやつをみると絶対に俺はこんなやつらのようにはなりたくないというふうに思っていた。それは、努力を促すのだけれど、とかく目標を高く設定しがちで、たくさんの時間をかけてでも納得する出来のものしか許さないという傾向があった。こういったスタンスは実のところ非常に非生産的で、かつ疲れるのである。生活の時間の許す限りをある一つのことにだらだらの使っているので、全体の効率は上がっていかないし、興味のあることにはいくらでも首を突っ込んでいって、結局どれも中途半端になるという悪循環になっていた。要するに、地に足が着かずに、理想だけが一人歩きして、努力は空回りして、ちっとも自分は成長していないということなのだ。もちろん、それなりに自分は成長したとは思っているけど、それはずっと同じ類の成長で、かつその成長のスピード衰えているような感じなのだ。

ところが、ここ最近は心の持ちようにすごく大きな変化があったように思う。村上春樹の本もかなり影響していると思うが、とにかく自分を等身大に捉えられるようになった(と思う)。これは、常に背伸びすることがいいことだと思っていた自分にはすごい変化なのである。もちろん、志は今でもできるだけ高いものを維持したいとは思うが、目標は適度でなくてはならないことに気づいたのである。それが、自分を着実に成長させられる唯一の方法だという確信があるから。イチローは「大きな目的は、小さなことを積み重ねていくことのみで達成することができる」と言うが、その本当の意味に最近分かったような気がする。したがって、今では一番初めの目標はとにかく低くていいと思っている。今週は1日は9時までに研究室に行こうとか、そのくらいでいいと思っている。
そして、自分を等身大に捉える事は、ありあまるような余裕を精神にもたらす。以前までは苦手だったけれども、今では女の子と二人で話しをしても普通にずっと会話できるような気がする。もちろん、もっと正確に、おもしろく自分の感情や考えを表現する語彙が必要だが、本質的には心の持ちようだと思うのだ。

おそらくこの心境の変化は、研究室への所属などの環境の変化も大きく影響をしていると思う。それぞれが違うものを持っているのでいろんな刺激をもらっている。ある人は、いつも余裕があって、絶対にあわてたりしない。ある人は、すごくきちんと課題をコツコツやって着実に専門を身につけていっている。僕も自分でもなんだが、いい影響をみんなに与えていると思う。それは、サッカー日本代表の本田圭祐が、強引に左足でシュートを放つようなゴールへの貪欲さについて、「だって他の日本人ってそういうのいないでしょ」みたいに言うことと同じ類のものだ。草食系男子が蔓延り、内向き志向が充満する今の日本で、俺みたいなやつの存在価値は十分に分かっている。将来の志もずっと変えるつもりはないが、もっと等身大の自分で着実に成長していくことが大事なのだ。それが今自分が考えていることである。

Replace the cover or not

This time, I'd like to introduce the political atmosphere in Japan now.
Last Sunday, Prefectural elections for the Tokyo Metoropolitan Assembly was held for the first time in 3 years and DPJ, which is the most popular opposition party in Japan so far, got almost sweeping winning against ruling coalition of LDP and New Komeito. Although this is a municipal election, the results is regarde as the test for the general election of house of representatives, wchich is to be held 30th August. One of the biggest concern is whether LDP should replace the prime minister, Taro Aso, for the next election even after 3times change of the position with no national election or stick to match with DPJ by PM Aso' s leadership.

In my opinion, LDP should change its leader because even if most of the constituents regard the forth change of its leader with no election as nothing but populism, the situation is so advantageous for DPJ that it is very likely that lots of totally new politicain with no ability to contribute to the drastic but realistic administrative reform that is urgently needed to Japanese politics. The 2005 general election was a good example. In that fight, then-prime minister Junichiro Koizumi brought LDP a gretest vistory and some of the elected candidates was incompetent to politics practically. Indeed, one of the "Koizumi children", which refer to the first term statesmen who owe their winning to Koizumi, Taizo Sugimura, was not able to get official status to run for the next election as LDP member, which means it is almost impossible to be re-elected.

So, the voters should not chose candidates by their party but thier real ablity and policy of the party. And this is only possible when LDP choses new leader of them and show thier real policy for the future against DPJ; the lame duck PM cannot come up with policy good enough to match up with DPJ nor put various opinons together in divers LDP members. LDP should not be afraid of changing its cover for the forth time in as many years and show the constituents a real will to change Japan and themselves.

Saturday, July 11, 2009

Career seminar for students overseas

It's been weeks since the last post. I had finished my presentation of the progress in my dissertation last week and I'm now focusing on studying 'tools'- mainly econometrics.

Meanwhile, I joined a career seminar for students aiming to go overseas master’s courses yesterday. I have paid little attention to job hunting though I heard many reports from my friends and peers.In the seminar, a career consultant gave me some pieces of helpful advice ―a different schedule of job hunting due to the graduation timing, a way to make the most of experiences that I am going to get overseas and so on.

I have to make me prepared for the application to a university in UK in several months. It would be good opportunity for me to think about my future thoroughly and have clear vision for my future career.

Tuesday, June 23, 2009

The first post

Hello! I am Kazu.
I would like to start my daily blog for the purpose of three reasons below.

1. to have more oppotunity of ourput
2. to get accostomed to writing in English quickly
3. to leave what we I have done or have thought in online source


For the first post, I introduce a book witten by Kenichiro Mogi (茂木健一郎).
The title is "Brain & Action"(邦題:脳を活かす仕事術~「わかる」を「できる」に変える~、PHP出版、2008)

I have felt recently that Mogi's idea is quite unique and his advices based on his major field, Brain Science, is really understandable for me. For example, he suggests in the book that you have to act imeadiately after you come up with doing something (ex. assignments) if you are to concentrate on the issue, leaving all the other little issues behind.
Looking back to my experiences, I tend to leave what I want to do most and do tiny thigs first. He insists, however that these behavior is inefficient because we should retain the first until we complete all tiny things. That's why I'm writing this blog as soon as I read the point in the book at the book store unlike the usual way of finishing tasks. Although I cannnot explain, this way of practices seems desparetly needed for me now.

There are another thing that I got interested; Sensary system (=Input, 感覚系 ) and motive system (=output, 運動系) are different.
Let me give you an example. Say, you love watching movies. Then you can appriciate which movie is good and which one is crap. Neverthless, you usually cannot make good movies even though you are huge fan of cinemas. It is certain that you need practices and compare your works to what you think is good to create one that satisfies you. So, as you know, it is one thing to have inputs (it allows you to have good ablity for appriciation). But it is quite another thing to make outputs (it allows you to "ship" your works).
Surprisingly, in the scientific view, he says that Sensary system (=Input) and motive system (=output) is not connetcted in our brain and we have to gap the balance of the level of input and that of output through the works we creats in order to make good products (or at least reach our full potential). He adds that we should pay more attention to make outputs since ICT brought us so many chance to make inputs both consciously and unconsciously that we apt to have much more inputs, making us feel a difficulty in expressing our thought as nicely as possible.

In conclusion, he suggets us to have more oppotunity for output. So I intend to fill the gap of Sensary system (=Input) and motive system (=output) by this blog!