Sunday, February 26, 2012

機能する官僚制とは?

先日、修士論文の発表が終わり、ほっとしている今日このごろである。しばらく、研究のことしか考えられなかったので、就職までしばし与えられた猶予を使って駄文をしたためることにしよう。


現在の官僚依存体質の源流


日本の様々なところで行き詰まりを感じるのは周知の事実だと思います。その原因の一つは政治の官僚依存体質だろうということは以前の投稿でも書きました。ふと思いついて、今日NHKオンデマンドで「さかのぼり日本史 明治 官僚国家への道」を観ましたが、現在の問題の源流をみた気がして面白かったです。そこから自分が考えた、現在の官僚の問題の遠因を2つ紹介します。


一つは、戦後GHQによる内務省の分割。内務省は岩倉使節団の大久保利通のドイツ視察がきっかけとなり、1873(明治6)開設された官僚中の官僚組織です。当時は、地理、交通、総務、勧業、警察など多くの部門を含み、これらを有機的に組み合わせて、初代内務卿(大臣)の大久保は富国強兵に大きく貢献したのでした。戦後内務省があまりに権限が大きいことからGHQにより分割されましたが、これは今の省益に基づく縦割りの弊害を生む原因の一つとなったのかもしれません。

もう一つは、1889年の明治憲法制定。これによって官僚の特権が実質的に生まれました。これは、良い意味での政治家の右腕となるエリートの育成であり、その後の急速な近代化に成功できた要因の一つです。しかし、政府は議会や政党に左右されずに、(官僚が専門的に研究したことに基づいた正しい政策によって)政治を行うべきであるとする「超然主義」に代表されるように、議会・民意の軽視するマイナス面も合わせもっていた。欧米列強の脅威から、急速な近代化が求められた状況では非常に大きな効果を示したが、現在の国民主権といいつつ実質官僚にすべてを牛耳られた状況の要因の一つはここにあるような気がします。おそらく、戦後復興までの段階までは、国益全体のために奉仕するという高い倫理観があったはずですが、その後長期にわたる自民党政権の政官癒着がたたって、近年は目も当てられない省益追求の自己保身でしかなくなっています。


日本の官僚の3タイプ


このような官僚の変遷について、真淵勝先生の「官僚」にはいくつかのモデルが紹介されています。それによれば、日本の官僚は国士型官僚、調整型官僚、吏員型官僚の3タイプが存在するそうです。国士型官僚は1960年代までのほとんどすべてのキャリア官僚で見られたタイプで、行政は政治の上にたち、政策形成は政治家や利益団体とは距離をおいて公益に基づいてなされるべきだとの認識をもっています。調整型官僚は70年代以降登場し、行政と政治は対等であり、政治家や利益団体と協調し、様々な利害の調整を行うことが官僚の役割と認識しています。村松岐夫「戦後の日本の官僚制」での用語では政治的官僚にあたります。吏員型官僚は80年代中頃以降、官僚批判が高まる中で登場したタイプで、行政は政治の下おかれるべきで社会とも距離をとり必要最小限の仕事だけしようと考えるタイプです。

表1に示すようなヨーロッパの政官関係においては、理念の提示、利害の調整、政策の形成、政策の実施の4つの機能が政治家・官僚の担いうる役割としてあげられており、しだいに官僚と政治家の役割の共有が進んできたようです。私の印象では、イギリスとドイツなど国によって違うのでしょうが、まだまだ政治家の役割が強い印象です。先の日本の官僚の三タイプを同じ機能別に私があてはめてみたのが表2です(たぶんに推測ですのであしからず)。





ここから分かるのは、国士型がポピュリズムを排除して徹底的に公益のために尽くすという意識から利害調整というものがそもそもあまりなかったといえるでしょう。だんだんと、経済のパイが増えるに従って分け合う利権もでき、自民党と経団連をはじめとする民間の利益団体との調整役として調整型官僚が登場します。真淵先生の著書では、去勢された吏員型官僚が近年増加しているとのことですが、そのぶん調整型官僚の悪玉の存在感が増しているようにも見えます。そして、政治家の体たらくで、理念の提示すら実質的に官僚がやっているようにも見えます。その要因は、霞が関文学、御用学者の活用など委員会運営の実態など、これまで利害調整と政策決定を官僚が独占できた暗黙知の部分があらわになりつつあるからだろう。


機能する官僚制度にむけて

ここまでいろいろと官僚の歴史と役割についてみてきましたが、今の日本で機能する官僚とはどのような姿なのでしょうか。少なくとも、国士型官僚のような役割をする層とそれを使いこなす政治家のタッグは不可欠でしょう。戦後を代表する国士型官僚は、大来佐武郎氏(逓信省→外務省→経済審議庁→経済企画庁、のち外相)や堺屋太一氏(通産省のち小渕内閣で経済企画庁長官)が挙げられるだろう。要するに、欧米のシンクタンクの役割を有能な若手~中堅の国士官僚が果たしていたのだろう。堺屋太一氏は橋本大阪市長のブレーンとして、未だに影響力をもっており地方から改革を起こしつつあるが、今のシステムに組み込まれた官僚にはあんな発想はできないよね。また、原発事故後の「日本中枢の崩壊」の上梓で時の人となった元経産省の古賀茂明氏は、国士型官僚を理想としていたが、今の経産省はじめとする省庁は組織としてそれを許容できなかったということだろう。

具体的な対策としては何が考えられるだろうか。堺屋氏は古賀氏との対談で、次のようにラジカルな公務員制度改革を主張しています。

「明治維新の出発は版籍奉還、武士の身分をなくしたことです。今も、まずやるべきは公務員改革、官僚を身分から能力と意欲で選ぶ職業にすることです。」
 週刊現代 永田町ディープスロート「特大号スペシャル この国の宿痾を語ろう 堺屋太一×古賀茂明「官僚というもの」 マスコミをたぶらかし、国民をだます」 2011年12月06日(火) http://gendai.ismedia.jp/articles/-/16964?page=4


おそらく幹部の民間からの登用、人材交流、国家試験の改革などが挙げられるのでしょうか、古賀氏の苦労などをみると、その実効性はかなり怪しいものがあります。

苫米地英人氏は、今の政治的官僚の相当数を政治家の政策秘書にするべきだと主張してましたね。僕自身は割合いい発想だと思うのですが。官僚が密室で利害調整するのは終わりにして、ガラス張りで政治家が利害調整すればいいと思います。えいやっとやればそんなに時間はかからないと思うのですが。高橋洋一さんがやっているようなコンサルティングがもっと厚みがでてくれば現実味が増すと思います。このごろの、民主党の惰性政権と、自民党の低空飛行をみていると次の選挙は、みんなの党に勝ってもらって渡辺喜美さんに大いに公務員制度改革やってもらいたくなるね。

Saturday, January 7, 2012

東洋大柏原くんの魂の走り

今回は遅ればせながら、箱根駅伝について。今年も一年の始まりに箱根駅伝で東洋大の柏原くんの魂の走りに元気をもらった。
今年は柏原くんだけではなく、東洋大はチームとして圧倒的な強さを見せた。2位とのリードを92秒つけ、大会記録を815秒縮めるなど、後年研究の対象となるレベルの強さであった。酒井監督の貧血対策(足の底の血管がつぶされておこる溶血性のものを含む)など細やかな食生活指導、脱柏原志向による底上げ・競争意識醸成など興味深い取り組みが行われていたようである。しかし、やはり強さの中心は柏原くんであり、最も感動的だったのも彼の走りであった。


柏原くんの魅力
柏原くんのファンになったのは、彼が一年生だった3年前の2009年である。当時書いた感想をここに抜粋する。
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20090113
今年のニューイヤーと箱根は面白かったですね!
東洋大の柏原くんはマジ大好きになった。
彼のコメントへの感想。

「前半は落ち着いて走れ」との佐藤尚監督代行の指示を無視。「5分差がなんだ。奇跡を起こしてやる」
普通の人は「奇跡は起きるもの」と考える。しかし、奇跡を起こした人は、みな自分が奇跡を起こせると信じている。だから、奇跡を起こしたいなら、まず奇跡を起こせると自分で信じられるかどうかが一つの壁なのではないか。これは日本人的考え方かも。

「箱根の景色も楽しかったし、応援がうれしくて最初の1キロで泣きそうになった」
走ることへの感謝。これが勝負でさえ一番大事なんじゃないかなと思う。
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記録に関しても、毎年山登りの五区で伝説を作っているが、なによりもその人間としてのありかたが人の心を打つのではないか。
一年生時に不可能と思われた往路での大逆転劇を演じ、「奇跡を起こしてやるんだ」の一心でそれを実現させた。私はそこから、次のことを教えてもらった。ごくたまに奇跡は起こる。しかし、奇跡を起こした人は、必ず奇跡が起こせることを本気で信じている。少なくとも、奇跡はそれを信じているものだけが起こす可能性を持つ。

1年生でおこした奇跡的な走りは、2年目にも区間新記録の走りでの逆転優勝を再現し、再び奇跡を起こした。しかし、3年目の昨年の柏原くんは、箱根まで大スランプに陥っていた。周囲の期待の大きさをプレッシャーに感じて、気持ちが空回りしたのか、もしくはバーンアウトになりかけたのか、理由はよくわからない。ただ、チームの練習にもついていけなくなるほどパフォーマンスが明らかに落ちたようである。それでも、最後には持ちなおして区間賞を再度取り、三度往路優勝に貢献したのである。
このような、毎年の成長がまた泣かせるのである。


仲間と福島に捧げた最後の箱根
今年は、彼の出身である福島が震災と原発事故で大変な苦難に陥り、彼は東北全体の期待を背負って走ることになった。しかし、昨年の成長が柏原くんをさらに逞しくさせた。エースからチームをしょってたつキャプテンへと成長したのだ。普通なら、力みすぎて本来の力を出せないことも十分考えられたが、最後の箱根をこれまで以上の魂の、東北魂の走りを我々に見せてくれた。記録は、2年次に出した自信の区間記録をさらに29秒も上回る1時間1638秒。凄い記録だけど、今年は出すべくして出したという感じだった。

往路優勝後のインタビューでの柏原くんのコメントをここに紹介する。
「仲間がトップでつないで来てくれると信じていましたが、本当にトップできてくれて、走る前に涙が出そうになりました。」
福島の方々からの応援もあったが?
「僕が苦しいのはたった一時間ちょっとなので。(震災でずっと苦しんでいる)福島の方々に比べたら、全然きつくなかったです。」

柏原くんの魂の走りは、きっと福島にビンビンに届いたと思います。それどころか、日本全体を勇気付ける走りでした。「日本はまだ終わりじゃない。俺たちはまだやれるんだ。仲間と一緒に頑張れるんだ」―走りでそれが伝わってきて、泣けました。
そして、あれだけの走りをして、こう言ってのける。これは道徳の教科書にのってもいいぐらいの名言だと思います。柏原くんの走りは、自分はまだ観たことがないが、昭和の「おしん」的な日本の良さを体現しているようにも感じます。


陸上競技の魅力
私は中学で陸上部に入り、中長距離をやっていたこともあり、陸上には少しばかり思い入れがある。その経験からすると、陸上競技というものにラッキーということはほとんどない。程度の差こそあれ、チームスポーツ、特に球技は不確実性があり、実力以上の良い結果が出てしまうことが結構ある。しかし、基本的に陸上は自分との戦いであり、そのような結果オーライということはまずない。練習も普段の自力をつける段階と、事前の調整というピークをいかに本番に持ってくるかという面で違いがあり、ただ多く練習すればよいといった単純なものでもない。ただし、事前の準備が最も直接的に結果にあらわれるということが個人競技である陸上の特徴である。言い訳はできない。そこに、陸上の楽しさと苦しさの両方がある。

ある意味で、駅伝やマラソンは退屈なスポーツの代表である。派手さは全くない。しかし、村上春樹が「海辺のカフカ」で次のように書いている。

“この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。” (文庫版p.235

駅伝を代表とする陸上競技にはどこか人を飽きさせない魅力がある。陸上競技のスポーツにおける位置は、芸術における純文学のそれや、科学における数学のそれのようなものである。最も根源的な何かである。自分は才能がなく、違う道を生業としているが、陸上競技から得たものは私の基礎をなしているし、陸上の第一線で活躍する選手への憧れは今も変わらない。


ガラパゴス化する日本の(男子)陸上長距離界
最後に、日本の陸上界への注文を少し。柏原くんは伝説になった。視聴率も取れる走りだから、テレビ局としては最高の材料だったことだろう。そして、大学にとって最高の宣伝になっただろう。しかし、柏原くんの伝説には山登り5区の2006年の区間距離の変更(20.9km→23.4km)が密接に関係している。表向きにはマラソンにつながる持久力の育成がその理由とされるが、その真意は定かではない。個人的な邪推では、山登りできつい5区を最長距離にして、逆転劇が生まれやすいように主催者側が変更したのではと思っている。それもあってか、柏原くんが2度目の逆転往路優勝をさらった2010年あたりからは、5区の区間距離の見直し案も見られるようになった。また、スピード重視の世界の潮流と逆行する点に疑問を示す意見もある(日刊スポーツ201213日)。

その原因は、実業団の駅伝重視と同じ構図だと思う。これについては、為末大氏のブログ記事に詳しい。氏いわく、実業団では、箱根駅伝の前日に行われる元日の全日本実業団対抗駅伝(ニューイヤー駅伝:私の地元を走る)に代表されるように、企業の宣伝になる国内を重視し、日の丸をつけて走るオリンピックや世界陸上でのマラソンなどの国際大会を軽視する傾向がみられる。もちろん、これは制度がそうなっているという意味で、選手が力を抜いているわけではない。

企業や大学の宣伝、テレビの視聴率はいいけど、競技者自身の夢や、それを支えるファンの夢はないがしろにされていないか。5区の区間距離の変更が本当に日本の陸上長距離界が世界で戦える実力をつける場になりきれているのかはよく考えなければならない。
今年は打倒東洋・打倒柏原で、各大学苦心していた。今年は、柏原くんの影に隠れているが、往路の早大と明大の2位争いも非常にレベルの高いものだった。山登りを任された早大の一年生はその性格の強さから、おそらく4年間5区山登り専門で育成・起用されるだろう。彼らは、将来トラック長距離やマラソンで活躍できるのか。(男子)陸上長距離界もガラパゴス化していないか。甲子園を沸かせたダルビッシュがプロ野球を沸かせ、さらにメジャーリーグを沸かせようとしている。(男子)陸上長距離界でも、箱根で活躍した選手がより多く世界に羽ばたけるようになるといいだろう。さしあたっては、既に本人が公言しているように、柏原くんが富士通に行ってからは、駅伝だけでなくマラソンで世界を制してほしい。応援しています。

Monday, December 26, 2011

園子音監督再燃

久しぶりの更新。先月で、研究はやや慌ただしさはなくなり執筆・分析モードになっている。
今年はケガもあって、映画をたくさん観ることができたが、最近は園子音監督に再びハマっている。

「愛のむきだし」で好きになって、「紀子の食卓」なども観たがしばらく観ていなかった。今年の後半に入って久しぶりに2003年の「ハザード」を観て、パンクバンドのファーストアルバムのような作品という監督の形容にふさわしく、強烈な印象を覚えた。

ベネチアで染谷将太と二階堂ふみが新人賞を取った話題作「ヒミズ」公開を記念して吉祥寺バウスシアターで監督の特集をやっているが、まだDVDが出ていない「冷たい熱帯魚」と「恋の罪」を先週と昨日続けて鑑賞した。どちらも、人間の本性をえぐりだす快作。特に「恋の罪」は今年の自分の一番に近い。R18指定になっているが、それが申し訳程度に思えるグロさ。「GANTZ」のグロさとはえらい違い。グロさがリアルなんだよな。本2作品の場合は、銃を使わずナイフや包丁で、純白の布を血で染めるから本当にエグイ。でも、それが我々観客の心を極限まで高揚させるのである。

それにしても園監督は、俳優を育てる。「紀子の食卓」の吉高由里子にしても、「ハザード」のオダギリジョーしかり。「愛のむきだし」の満島ひかりは代表。近作では、「冷たい熱帯魚」のでんでんや、「恋の罪」での神楽坂恵。俳優の潜在力を引き出すという意味においては右にでるものはいないといってもいいかもしれない。

これから数カ月は園子音モード。「ヒミズ」には園監督の過去の作品でおなじみの俳優が結集しているので公開が本当に楽しみだ。時間があれば、初期の作品ももっと観てみたいな。

Sunday, October 9, 2011

New Digital Camera

Finally, I bought a new digital camera. I have been feeling my SLR, Olympus E-420, still big (it was actually the smallest SLR camera back in 2008) to carry all the time. My smart phone (Xperia) is not satisfactory in the startup and latency times and the quality of the photos.

My choice this time was RICOH CX5!
What attracted me were the simple design and high performance in reasonable price.
These are the test photos.



The night view seems much better than the last compact digital camera and Xperia. RICOH is famous for close-up shots and I am looking forward to using it for the flowers and so on!

Wednesday, September 21, 2011

原子力発電と社会主義

今回は、日本の原発と原発メーカーの今後について議論したいと思います。


明らかにされた日本の原子力発電の影


3.11以後、日本の原子力発電に関して隠されていた不都合な事実が次々に明るみにでてきている。
例えば、河野太郎議員のブログには、隠蔽されてきた過去の事故が暴露されている。
http://www.taro.org/2011/09/post-1092.php
http://www.taro.org/2011/09/post-1091.php

私は、原子力発電は日本の戦後の経済成長とって大きな役割を果たしてきたと考えている。国家政策として安定的な電力を供給し、重厚長大産業育成の基盤となった。しかし、なぜそれが実現したのかといえば、電源三法による地方へのにんじん作戦。そして、上記のような不都合な事実の官民マスコミによる隠ぺいであった。

国際的にいわゆる先進国での原発の新規増設の実績は、低迷している。まず、自由市場が進んだ国では、そもそも投資家がリスクが高すぎて投資しない。経済的にペイしないのである。電力が自由化された国であれば、太陽光や風力などの自然エネルギーによる発電の方が、はるかに短期的に確実な投資回収を期待できる。しかし、原発メーカーはその国にとって非常に大きな影響力をもっているので、政府の補助金や事故の補償をとりつけて新規立地の計画をする。それでも、最後の実際に建設の承認を地元住民から取り付けることが現実的には相当難しい。原発は確かに安定的に電量を供給できるが、誰も近所に建ってほしいとは思わないのである(NIMBY問題)。民主主義が末端にまで浸透し、不都合な情報が成熟したジャーナリズムや市民社会によって共有されれば、なおさら承認を強行突破することが難しい。

これからの日本での原子力政策はどうあるべきなのか。一番意味がないのは、時間軸や空間軸を無私した脱原発か推進かの神学論争。ようやく毎日新聞が、時間軸も含めた世論調査を行って、段階的な原発削減志向を60%以上の人が持ってることが明らかになった。菅元総理の「原発に依存しない社会」や経済同友会の「縮原発」などの表現は、国民の感情をよく捉えていたと思う。経済合理性に関する議論はいろいろあるけれども、現実的に原発の新規増設が今後日本で実現することはほとんど考えられない。いくら産業界がまだ日本に原発は必要だといったところで、あれほどの事故が起きてしまったあとでは、新型の事故のリスクが低い原発であったとしても、国民感情が許さないだろう。少なくとも、原発維持勢力が意図的に再生可能エネルギーの成長を阻止してきた、全くの愚行は改めねばならない。


社会主義者の原発擁護論


さて、よく考えてみると、原発の立地が(特に最近)実現しているのは社会主義的な国に多いことに気づく。フランスはその典型である。今回のフクシマの事故に関する社会主義者の代表的な意見は次のようである。つまり、今回の事故は民間企業である東京電力の利益追求の姿勢が、福島の原発の津波対策への投資をけちってこんなことになったのだと。(日本の共産党に近い人々がそうであるように)多くの社会主義者は、反射的に反原発を主張しているが、それは原発への根拠のない恐れと、自然エネルギーがすぐに原発を代替えできるという幻想に基づく。真の社会主義者は、原発の事故がおこす負の面に比べて、(原発を止めて石炭火力などが増えることによる)気候変動がもたらす破滅的な害悪と不公正の大きさを考慮すべきだと。また、開発途上国が成長のために必要とする低炭素なエネルギー供給源を奪うべきではないと。
http://climateandcapitalism.com/?p=4707
これはこれで納得できる主張である。ソ連崩壊後、社会主義がもつ悪い面ばかりが表にでているが、一党独裁はリーダーが優れている限りは良い面もあるのだ。気候変動対策などは良い例である。中国は、国際交渉を妨げて大顰蹙を買っているが、一方で大胆な環境規制でドラスティックに省エネ・低炭素化を独自に進めている。民主主義の国では、既得権益保持勢力のロビイングによって規制が骨抜きにされるといった「民主主義の代償」が存在してる。しかし、社会主義国では意思決定のスピードと規制の執行能力が全く違う。中央の理想の追求を、末端まで押し切れるのである。


転換期にある「日本型社会主義」

では日本はどうか。私は政治学者ではないので、何が社会主義・共産主義だとかいうことを正確に理解しているわけではないので、厳密なところはご容赦願いたいが、日本もかつて「日本型社会主義」といわれたように、ある面で社会主義的側面があった。おそらくそれは、官僚主導の中央集権的な国家運営を指していたのだと思う。

その意味で、3.11の原発事故は、日本の民主主義にとって重大な転換点となることは明らかなように思う。エネルギーは生活や地域の産業にとって死活問題なので、原発による中央へのエネルギーの依存は、中央集権の一つの象徴であったのだ。これからの日本には、過渡的にはLNG火力などが増えるにしても、再生可能エネルギーなどの地方分散型のエネルギーが広まることは最も現実味のあるシナリオである。


日本の原発企業の未来?

それでは、日本の原発メーカーはすぐにでも原発事業から撤退すべきなのだろうか。私は、まだ日本の技術者が果たすべき役割はあると考える。それは、日本国内ではなく途上国を中心とする海外である。原子力発電は、10年~20年程度の間は世界のエネルギー供給においてまだまだ重要だと思う。核廃棄物処理や最終処分の問題があるが、気候変動の対策がなかなか進まない現状と、バイオエネルギーの食料との競合などをみると原子力、特に新型の小型原子力発電はまだ人類にとって捨てるべきでない選択肢であるように思う。ポイントは、社会主義国と開発途上国。社会主義国では、最後の水際で原発建設を押し切れる。もちろんフクシマを含めた安全管理における教訓は徹底的に活かすべきことは言うまでもないが。そして、途上国では原発のリスクよりも安定的な電力供給による便益のほうが勝る。したがって、両方を兼ね備える中国やベトナムなどはどんどん新規立地が実現するだろう。ここに、日本のメーカーが入り込む余地がある。ただし、それに日本政府がインフラ輸出だといって、あまりに高いリスクを背負うなど首を突っ込みすぎると、いざ事故がおこったときに日本の国民に莫大な負担を強いることになる。ヨルダンの原子力協定の議論などは良い例だ。是々非々の対応がよいのではないでしょうか。

とにかく、日本のメーカーは国の威信をかけて再生可能エネ技術の巻き返しを図ってほしいよね。レスターブラウンが主張するように地熱はもっと日本が頑張るべき分野だろう。3.11はあらゆる面で日本のターニングポイントになるというか、しないと日本の未来はない。

Sunday, September 11, 2011

[Review] 日本中枢の崩壊


日本中枢の崩壊、古賀 茂明、講談社 (2011/5/20)


<古賀氏の覚悟>

現役の経産官僚、古賀茂明氏の渾身の著作。ようやく読了した。よくまあここまで書いて、そして出版したものだ。すごい勇気だ。だてに、ガンの手術までしていないな。もう失うものは何もないという感じだ。あとがきに、出版の動機が書いてある。

「官僚は政権の指示に従って、余計な口を挟まず、実務をこなしていればいいのだという意見が一般的だ。~中略~。しかし、私は唯々諾々と従うだけが官僚の仕事ではないと思っているのである。むろん最終的には政治の判断に委ねなければならないが、その過程で閣僚とわれわれ官僚が政策論争を繰り広げるのは、決して悪いことではないはずだ。」


2ちゃんでの匿名のコメントですらときに罰せられる時代に、まだ官僚の方々は匿名性と無謬性の文化を保ち、必要な議論ですら密室で行う。そんな中で、古賀さんは現役で実名証言した。本当に国のことを一番に考えている。徹底している。自分は、古賀氏の意見に全ての賛成というわけではないが、その姿勢は本当に尊敬に値すると思う。古賀氏は国家官僚の鏡だ。

全日本人必読の書というのは、全くその通りだと思う。特に若い世代は読んだほうがいい。やみくもに、世代間対立を助長するつもりは毛頭ないが、みしらぬところで既得権益に縛られていて、このままでは日本の将来はじり貧である。古賀氏は最悪の場合「政府閉鎖」すら起こりかねないと警告している。そして、若い人は今のままなら年金も税金も払うなとまで言ってる(苦笑)彼の言い分を聞いておいて損はない。


<現在の官僚システムが諸悪の根源>

政治家・官僚が日本の問題だということがもう20年以上も言われている。しかし、それを私が深刻な問題としてとらえ始めたのはごく最近で、大学3年くらいになってからである。それまでは、日本がいろいろと問題を抱えていることは承知だったが、何が本質的な問題なのかよくわかっていなかった。それよりも、高校までは化学が好きだったので、目の前にある問題などを技術で解決することに興味があった。自分は環境問題に興味があったので、学部で化学工学を勉強する傍ら環境政策にも関心があった。あるとき、友人からなぜ日本では炭素税のようなものが導入されないのかと聞かれた。またあるときには、再生可能エネルギーが伸びないのはなぜかとかの質問を受けた。それで、それに答えるために自分で考えを整理したのだけど、炭素税を導入しない理由がわからなかったのだ。そして、再生可能エネルギーが伸びない理由も、わからなかったのだ。
それで、個別の技術を勉強したって、全く埒があかないじゃあないかとなって、専門を政策の方にスイッチしたわけである。特に、環境NGOでインターンをしたときに、(奇しくも震災で明るみになったわけだが)原子力・エネルギーに関わる政治家・官僚・業界の利権が全てを阻止しているのだということをまざまざと見せつかられたわけである。

そして、一番厄介なのが役人の方々。自分自身も、就職先として国家公務員を考えて、就職イベントに何度か参加したくらいので、古賀さんの書かれていることがとてもリアルに読めた。もし、役人になっていたら古賀さんのような上司のところで働きたいと思ったが、古賀さんは自分のような改革派はだんだん少なくなり、今では絶滅危惧種だと書いてある。そして、自分が肌で感じているものも同じだ。元外相で経済企画庁にいた大来佐武郎氏の評伝には、高度経済成長期の日本でいかに若手官僚が活躍したのかが克明に記されている。それなのに今の状況は、若手官僚の改革意欲がことごとくつぶさるシステムになっている。試験も受けずにこんなことを言うのは、並々ならぬ努力をして国会公務員になられた方々には失礼かもしれないが、今のタイミングで官僚にならなくてよかったと思った。それにしても、孤立無援に近くても、信念を貫き、私利私欲に走らず国のことを考え、政治家にもきちんとモノを言う。官僚になる前の自分ですら、言葉が官僚的になっていた時期を思い出すと古賀氏の率直な物言いには頭が下がる。


<日本政治の短期シミュレーション>

今後の日本はどうなってしまうのだろう。そういえば、また首相が変わったんだっけ。。。
野田政権では、古賀氏の経産省事務次官起用は難しいだろう。鉢呂経産大臣が、大胆な改革を目指していながら、1週間そこそこで実質的に与党守旧派、官僚および記者クラブに失脚させられたのがいい例だ。7月の松本龍復興相の失言引責辞任のときとは状況が全然違う。これでは、もう民主党には何にも期待できない。初めての大きな政権交代だったのだから、いろいろ経験しないと分からないこともあった。だから、失敗は多くあったけど、寄付税制改正や再生可能エネルギー促進法案が通っただけでも、民主党の存在価値はまああったといえよう。ただし、次の総選挙でも変われないとしたら日本は本当に終わりだと思う。民主党が安部政権以降の自民党政権末期の状況と酷似していることを考えれば、おそらく野田政権はしばらくの間空白を埋めるだろうが、次の総選挙までにはもう一度首相交代するか、民主党が割れて政界再編が起こるのではないか。

自民党がなんとかして河野太郎さんを中心に守旧派を一掃して再生すれば、次の選挙で与党復帰もある。おそらくみんなの党は、自民党の再生いかんに関わらず票を伸ばすだろう。河野首相の自み連立政権でなら、公務員制度改革や財政問題など大きな課題に取り組めるはずだ。そのあたりが、もう唯一の希望。福山さん、馬淵さん、長妻さんら民主党の実力派は、しばらく表舞台から遠ざかるだろうが、民主党が負ければ、執行部に再び入って建設的な議論を野党としてやってくれるはず。それがもう唯一期待できるシナリオ。


<日本の将来は国民一人一人が作り上げる>

しかし、最終的にはやはり国民一人一人が変わらないといけないのだと思う。記者クラブに牛耳られた今のマスゴミに踊らされているようでは、リーダーが変わったところでまた官僚と一部業界の既存のシステムの延長路線に吸い戻されるだけ。また、小沢一郎も言った。「国民以上の政治家は生まれない」と。自民への嫌悪感もあったろうが、小沢のばらまき政策で勝ててしまうのが日本の国民の政治意識の現状。古賀氏も繰り返し本書で述べていたが、まずお上に頼るというのはやめよう。国民が変わらなくちゃ、政治家は変わらない。政治家が変わらなければ官僚も変わらない。官僚が変わらないければ、政策も変わらない。政策が変わらなければ、日本の復活はない。

若い世代も変わらなくちゃならない。いや、若い世代から変わらなくちゃならない。自分自身への言葉でもあるが、親のすねをかじっていたのでは駄目だ。親が出してくれるからってニート生活を続けるなんて論外。だから、高齢層が我が子かわいさに、既得権益保持に気持ちが傾くのだ。あんな、雨後のタケノコのように乱立した私立大学でキャンパスライフを若者が無駄に消費できるのは、もうあと数年もないだろう。あんな一様な面白くもない、英語も話せない新卒の人材を生み出す就職活動の波に乗っかっていたら、どんどんアジア人材に雇用を奪われる。内向き世代などというレッテルは蹴散らしてやるのだ。


まあ、いろいろと書いたが、本書を読んでマスゴミに騙されないようにしよう。自分で政治家の仕事を評価できるようになろう。本当は、とても優秀な役人の方々が本来の仕事ができるように応援してあげよう。

[Review] Brutus No.716 恋愛特集

蒼井優の表紙に惹かれて、Brutusの最新号の恋愛特集を買ってみた。


★★★★★

恋愛の歴史的起源とかニーチェも愛したザロメの話など極めて硬派な記事から、大根仁さんを含むコメンテーターのQ&Aなどのお茶らけた記事までバラエティに富んでいた。実用的な話はあまり多くなく、全体として読み応えのある深い内容だった。

蒼井優が、3回登場する。今回のインタビューに限らずいたる雑誌で恋愛の不器用さをアピールしているけど、それでいてしっかり恋愛を楽しんでいるところが好き笑 「恋のメッセージは、語られるより活字の方が好みです。」とかいうから、蒼井優はやっぱスペシャルな女優だよなー。今回の特集の中で、いろんな作家や詩人が出てきたけれども、太宰治は恋愛の天才だと思った。蒼井優が惚れるのもわかる。

立川談春さんの「恋と落語」の記事もおもしろかった。江戸時代の幕府公認の遊郭である吉原では、花魁(キャバ嬢みたいなものか)たちに拒否権があったのだという。だからお金を払って行くのに嫌われて何もできないこともある。それが、「粋」とか「野暮」という言葉につながり、今日の日本人の価値観や美的感覚にもつながっているのだそうだ。

糸井重里さんも実は登場する。糸井さんはコピーライターだから普通導入部分でよくみるけど、今回はトリで出てくる。4部構成の力作。第2部「差異があるから恋愛が生まれる」というところに同意した。糸井さんいわく、最近は性の性愛(Sex)の方だけ一人歩きして、~性(Characteristics)の方が忘れられているという。ミスチルのSignの歌詞「似てるけどどこか違う、だけど同じ匂い」と類似。やっぱり自分と違うところ持っている人に惹かれるよね。

盛りだくさんだが、最後は坂口安吾の名文で締めさせていただく。(p.21の佐々木中氏の記事から抜粋。)
「教訓には二つあって、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまっているが、だからするなとはいえない性質のものと、二つである。
 恋愛は後者に属するもので、所詮幻であり、永遠の恋などは嘘の骨頂だとわかっていてもそれをするな、といい得ない性質のものである。それをしなければ人生自体がなくなるようなものだから。」 (坂口安吾全集05、筑摩書房)

たくさん失敗しよう!