Thursday, June 24, 2010

Is Twitter a revolution?

Its been almost two years since studying abroad in Singapore.
Since I have focused on developing Japanese language itself rather than in English, my English writing skill has got worse. So I will try to brush it up, aiming to speed up writing academic papers that I am tackling.

This time, to begin with, I would like to write about Twitter or micro-blogging.
Nowadays, social media such as SNS (facebook, mixi), Twitter has become quite common and many journalists regarded it as innovative and revolutionary phenomena. Actuary, I am a relatively heavy user of them. Reflecting real benefit, however, I doubt that these online tools brought me tremendously good effects.
There are two reasons for this.

Firstly, although twitter is very good tool for inputs (get latest news and broaden news source by following famous journalists / commentators) and sharing knowledge or your own, it does no good for writing skill of your own. It has to be developed by other way like diary, blog or on the job training. This is because twitter is too short a tool to write opinions with logic(including conjunction) and data source. It just let users write sudden tip and it is not going to be recorded, resulting in no chance to reflect what they wrote about. Actually, I lost some opportunity to write chunked essays after having started twitter.

Secondly, It tends to encourage online addiction in a sense. Timely tweets (and same services such as "voice" on mixi and "status" on Facebook) made me heavily sensitive to latest news and latest activities of friends and people of interest. (I am sensitive by nature but it went further.) If I were a journalist, it would be good to very much extent. But I am student and have to study systematized knowledge and classic literatures of my field while I am student and I have relatively more time. (Also, always connecting online on social networking sites is nothing to do with real communication and I feel limited interest. They are sometimes very useful in practical way but not always true.) Being online I think is no less dependency than a cigar and alcohol.

Maybe one solution to an addiction to social media would be "detox" or refrain from log-in
to them for certain days regularly. And I am trying to do this, finding it more hard to stop drinking beer...

[Review]知性の限界

「知性の限界―不可測性・不確実性・不可知性」、高橋昌一郎、講談社現代新書、2010
★★★★☆

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を読みたいが、ハードルが高いので、まずこの本を読んでみた。対話形式なので、哲学を扱っているのに非常に読みやすいし、おもしろかった。


◆第1章 言語の限界
「論理哲学論考」に代表される前期ウィトゲンシュタインと、言語ゲームの理論を構築した後期ウィトゲンシュタイン、そして言語の問題に関わるその周辺が展開されている。
最後のソーカルの引き起こした「サイエンスウォーズ」はなかなかおもしろい事件であったと思った(笑)
これは1996年に、ソーカルという物理学者が、ポストモダニズム系学者の無数の意味をなさない表現を引用して作ったパッチワークを「カルチャラルスタディーズ」の論集として知られる『ソーシャル・テクスト』誌に投稿し、彼らがきちんと意味を理解しているのかを実験したのである。これが、ニューヨークタイムズの一面に載るなど、理系と文系の両陣営の賛否両論の大論争になったという話。
意味のない科学用語の使用に対する警告は、誰でも注意すべきだろう。よくわかっていないのに、知ったかぶりに多用しない。よく理解していても一般大衆に語りかけるときには、平易な言葉で語る努力をする等々。それが大事だろう。


◆第2章 予測の限界
省略

◆第3章 思考の限界
奇跡か偶然かの項で「宇宙・存在-人類が今のようにあるのは、偶然か必然か?」という点はおもしろい議論だった。

私個人の意見を以下に記しておく。
思考できなければ、上で命題としているような「存在」を知覚することはできない。したがって、無数の宇宙が有ったとして、その1つに偶然(様々な物理定数が人類誕生に丁度いいように微調整されて)人類が誕生したが、宇宙の存在などを思考できるのは人間に限られるので、結果的にそれが必然であるように見えるだけなのではないか。だから、思考できる実体(生物種)が存在しない宇宙においては、その存在は認知されえない。このような、宇宙が別にいくらでも存在しているかもしれないし、していないかれないが、それらを別の宇宙に存在している人間が哲学したところで何の意味も持たないように思う。(もし、この宇宙と別の宇宙が何らかの形でつながっていなければ、ということだが。そして実際に、他惑星の生物からのメッセージのようなものはいまだ観測されていないのだから、繋がっていないその可能性は高い?)

蛇足
大学1年だかのときにとった西洋近現代思想の授業が果てしなく、つまらなく感じたのは、講師が悪かったのか、自分がそれに興味をもつのには早すぎたのか。。。ただ、今はそれなりにあのつまらない話も訳に立っているとは思受けどね。そして、その講師が紹介してくれた本は良かったのは覚えている。これも対話形式だった。


さて、そろそろ無為に哲学書などを読むのをけりをつけて現実の仕事をしなければならない(笑)論文を訳すのに何週間かかってるか分からん。

Saturday, June 19, 2010

言語システム

最近、言語システムというものに興味がある。

なぜ、日本人はあいまいなものいいしかできないのか?
なぜドイツ語圏から多くの偉大な思想家が生まれているのか?
日本人には一般的に、日本人的な思考体系があり、イギリス人にもイギリス人的な思考体系があり、ドイツ人も、中国人・・・もそうである。そして、最近それらは言語に大きく規定されているのではないかとい感じている。(ここで、言語が先にあるのか、そのような民族的性質が風土や他国の侵略等歴史的経緯によって形成されているのか、はたまたその組み合わせなのか、という議論はひとまず置いておくこととする。)
そこで、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」などに読み漁っているとこである。あまり、まとまってはいないが、今回はまず私の考える日本語の特徴と言語システムの2つの目的について記しておく。


◆日本語の特徴
日本語には、使用する文字の種類についても、文法・語法的にも様々な特徴がある。一つの例が、単語には複数形がないことである。したがって、日本ではその物が1つあるのか複数あるのかには明示的にあまり意識されない。これは、外務省の対外的説明と内向きの説明に利用されたりする。例えば、沖縄の普天間基地移移設問題で、5月に発表された日米合意案について、外務省は日本語版では単に「滑走路」としているが、英語版では「runway portion(s)」と複数形になっており、対外的には2本の滑走路を含む現行のV字滑走路案を念頭に合意したことが分かる。
また、日本語は主語が省略可能なことが多く、行為の責任の所在があいまいになったりするため、一般にリーダーシップの欠如が問題になることが多い。
これら特定の言語の特徴は、他言語との比較でしか認知することはできない。つまり、日本語しかわかっていない人間は、日本語で規定されているようなルール(制約)を超えて、自覚的に思考することはできないということになる。(もちろん、数式など異なる記号体系を使えば思考はできるが、それは日本語ではない。)
こう考えると、英語を使えないことが多い日本人は何やら思考回路が貧弱なようにも思えてくるが、日本語はカタカナや漢字を用いて、他言語の翻訳機能にすぐれている(?)ために、いったん日本語に適切に翻訳されれば、それほど問題はない。(ただし、訳書が出るのに、2~3年もかかっていたら古典的な価値を持つ名著を除いて、情報としての鮮度は落ちる。また、訳が完全に正確ということもあり得ない。さらに、小説などはその文学的・詩的な質感が失われてしまうことは言うまでもない。)しかし逆に、日本語のそのような言語としての柔軟性が日本人の外国語習得意欲を妨げている一因とも考えられる。

◆思考ツールとしての言語システム
私は、2年前にシンガポールに留学し、主に英語を使って生活していたが、そのときに稚拙な英語能力のために日記などを書くのにやたら欲求不満になり、ときどき日本語で一気に開放されたように考え事を書きつづった覚えがある。そして、日本に帰ってきてからは、英語というよりかはもっと日本語を身につけたいと本気で思ったもである。つまりは、少なくとも一つの言語に関しては高度に習熟していなければ、質の高い思考はできないだろうということに気がついたのである。まとめると、言語を思考ツールとして捉えるならば、中途半端に習得した言語は使い物にならないだろうというだ。

◆コミュニケーション・ツールとしての言語システム
哲学書を読むことは、より抽象的で根本的な概念についての語彙が増えるので、その範疇での質の高い思考ツールを得ることでもあると思う。しかし、そのような難解な言葉は、日常生活におけるコミュニケーションには全く役に立たないだろう。それどころか、伝わることも伝わらないし、いかに自分が感動した話であっても聞く方としては、全く魅力を感じないだろう。
要するに、日常生活においては意思伝達をして何かをしてもらったり、感覚や感情や伝えることで共感してもらったりすることが大事なのであって、言語はそのように使われているのである。この場合、哲学書は何の役にも立たない。このようなコミュニケーションを目的として言葉を磨こうと思ったら、小説や落語のようなものが有効だろう。


最後におまけだが、陸上400mHの為末氏は、言語は生き物であり常に変化しているが、英語が今後グローバル化の影響で(日本がそうなったように)よりあいまいになっていくのではないかと予想している。おもしろい予想である。(あまり知られていないが、彼のブログは本当におもしろい!)

Friday, June 18, 2010

[Review]仕事頭がよくなるアウトプット勉強法

「仕事頭がよくなるアウトプット勉強法」、増永寛之、サンマーク出版、2009
★★★★☆

ビジネス書は数が過剰感があって内容も薄いのでそんなに読まないけれど、これはおススメ。

先日Twitterでつぶやいたけれど、
「人間が思い出せるのは、
* 耳にしたことの10%
* 目にしたことの35%
* 耳にして、かつ目にしたことの55%
* 言葉を言い換えたことの70%
* 言葉を言い換えて、実行したことの90%」

というのは、かなり真実に近いと思う。
これを自分の言葉でいいかえると、
「真に自分の身なる情報の量は、
* 2次情報としてインプットしたこと(ニュースや読書)の10%
* 1次情報としてインプットしたこと(自分で体感する、勉強なら手を動かす)の40%
* 人に自分の言葉で説明したことの70%
* 当事者として関わり実践したこと(サークルで何かを実践する、研究に使うetc.)の90%」
といったところか。

ようするにアウトプットが大事なのだということ。
(茂木健一郎氏の本によれば、インプット(発散系)とアウトプット(収束系)は脳の回路がつながっていないから、インプットが多くなりがちな情報化社会ではアウトプットがより意識的になされるべきだとある。

それについてこの本はいろいろな実践方法が書いてある。
一番重要なのは、アウトプットを前提に(どの媒体でどのようにアウトプットするかを考えながら)インプットすることだろう。

その他、大事だと思ったところ。
・何をどのように勉強するかを決めるのではなく、先に1日の中で習慣として勉強時間を確保する(スクリーンアウト) p.53-56
・「スルータイム型」と「インタイム型」人間
スルータイム型の人は、スケジュール帳のように時間が上から下(または左から右)というように縦(または横)に通過する感覚を持つ人である。このような人は、「時間を客観的に見ていて、あまり思い入れもなく、自分に対しても他人に対しても時間に寛容な人が多い」そうである。p.65-66
インタイム型の人は、時間が自分の前から通過してきて、後ろに流れていくという感覚を持っている。このような人は、「時間を自分のことのように大切にしていて、時間を厳格に管理する傾向にある」そうだ。
自分は、絵にかいたような「スルータイム」型なので(笑)、うまくタイムマネジメントをするためには、インタイム型に移行しく必要があるだろう。

・ビジネス書は一気に読まない。
何冊ビジネス書を読んでも、効果がないのは実践する事項を覚えているうちに、実践しないからだろう。だから、ビジネス書はちょっとずつ読んで、1つづつ実践することが大事。非常に的を得た指摘。