Thursday, June 24, 2010

[Review]知性の限界

「知性の限界―不可測性・不確実性・不可知性」、高橋昌一郎、講談社現代新書、2010
★★★★☆

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を読みたいが、ハードルが高いので、まずこの本を読んでみた。対話形式なので、哲学を扱っているのに非常に読みやすいし、おもしろかった。


◆第1章 言語の限界
「論理哲学論考」に代表される前期ウィトゲンシュタインと、言語ゲームの理論を構築した後期ウィトゲンシュタイン、そして言語の問題に関わるその周辺が展開されている。
最後のソーカルの引き起こした「サイエンスウォーズ」はなかなかおもしろい事件であったと思った(笑)
これは1996年に、ソーカルという物理学者が、ポストモダニズム系学者の無数の意味をなさない表現を引用して作ったパッチワークを「カルチャラルスタディーズ」の論集として知られる『ソーシャル・テクスト』誌に投稿し、彼らがきちんと意味を理解しているのかを実験したのである。これが、ニューヨークタイムズの一面に載るなど、理系と文系の両陣営の賛否両論の大論争になったという話。
意味のない科学用語の使用に対する警告は、誰でも注意すべきだろう。よくわかっていないのに、知ったかぶりに多用しない。よく理解していても一般大衆に語りかけるときには、平易な言葉で語る努力をする等々。それが大事だろう。


◆第2章 予測の限界
省略

◆第3章 思考の限界
奇跡か偶然かの項で「宇宙・存在-人類が今のようにあるのは、偶然か必然か?」という点はおもしろい議論だった。

私個人の意見を以下に記しておく。
思考できなければ、上で命題としているような「存在」を知覚することはできない。したがって、無数の宇宙が有ったとして、その1つに偶然(様々な物理定数が人類誕生に丁度いいように微調整されて)人類が誕生したが、宇宙の存在などを思考できるのは人間に限られるので、結果的にそれが必然であるように見えるだけなのではないか。だから、思考できる実体(生物種)が存在しない宇宙においては、その存在は認知されえない。このような、宇宙が別にいくらでも存在しているかもしれないし、していないかれないが、それらを別の宇宙に存在している人間が哲学したところで何の意味も持たないように思う。(もし、この宇宙と別の宇宙が何らかの形でつながっていなければ、ということだが。そして実際に、他惑星の生物からのメッセージのようなものはいまだ観測されていないのだから、繋がっていないその可能性は高い?)

蛇足
大学1年だかのときにとった西洋近現代思想の授業が果てしなく、つまらなく感じたのは、講師が悪かったのか、自分がそれに興味をもつのには早すぎたのか。。。ただ、今はそれなりにあのつまらない話も訳に立っているとは思受けどね。そして、その講師が紹介してくれた本は良かったのは覚えている。これも対話形式だった。


さて、そろそろ無為に哲学書などを読むのをけりをつけて現実の仕事をしなければならない(笑)論文を訳すのに何週間かかってるか分からん。

No comments:

Post a Comment